週刊 ポスト 記事。 週刊ポストの最新号

史上最高の「大河ドラマ」総選挙ベスト20|NEWSポストセブン

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概要 [ ]• 毎週月曜日発売(一部地域では火曜日、水曜日に発売。 日曜日に前倒して発売する地域もある)。 『』を吸収する形で創刊。 小説家デビュー前のが記者として関わっていた。 『』同様、30代から40代の男性サラリーマンを主な読者層としている。 なお、『ボーイズライフ』の時代は中高生が主たる読者層だったが、それを方向転換し、一般向けの誌として生まれ変わったものである。 実売部数は、からの4年間、及びからの10年間で、それぞれ、日本国内で発行・販売されている総合週刊誌の中で最も多く売り上げたことがある。 しかし、度には約80万部に落ち込み、実売部数トップの座を『』に明け渡した。 その後も実売部数の落ち込みが続き、度上期には30万6010部に 、2008年度下期には29万7120部にまで落ちた。 特徴 [ ]• 近年における拡大について批判的であり、それを推し進めたとされるおよび時の会長・(会長)を批判する旨の記事を多数掲載している。 2004年6月に、写真の掲載を原則として取りやめる旨発表した。 時々、テレビのを告発する記事も掲載している。 かつて、『ポストネット』という名で、を行っていた時期もあった。 ちなみに「週刊ポスト」の雑誌としての権はが持っている(商標登録番号第942495号)。 歴代編集長 [ ]• 主なスクープ記事、不祥事 [ ]• での独占告白を掲載。 これがの野球界永久追放につながった。 投手のを『』と結論づけ、として告発記事を掲載した。 に、による「角界浄化スクープ」と題するのを告発する記事を掲載、と合戦になっていた。 のち2011年2月、が発覚する。 2000年2月4日号掲載の選手に対する記事「やっぱり! 虎の穴自主トレ清原が『金髪ストリップ通い』目撃」については、で当時としては最高の1,000万円の損害賠償金を支払うよう命令された (その後、で600万円に減額)。 それゆえにこの事件において『ポスト』は、他の雑誌に先駆けてを擁護した。 同時期にが起こっており、この西澤が民主党に一部、偽装問題の情報を提供していたのではとの噂もあったほど話題となった。 12月敗訴、440万円の賠償とウェブ版からの記事削除を命じられる。 2004年7月23日号「やらせスクープ撮 は着色されていた! 」で、を告発。 のちに大手メディアが後追い。 この報道により、2005年の『』を受賞した。 2006年8月26日号「6千万円被害者が激怒告白『私はあの有名女子アナに騙された! 2007年10月19日敗訴、165万円の賠償命令。 2006年11月17日号「はの発がん率を低下させる」との特集記事を掲載したが、その論拠が問題論文であったことから、2006年12月9日号の週刊現代において「」との批判が行われている。 詳細はを参照。 2006年12月22日号に「税調会長 『愛人と官舎同棲』をスクープ撮」を掲載。 現職の政府税制調査会長を辞任に追い込んだ。 2010年5月7・14日合併号で「<驚愕スクープ>不自然な『バンデージの封印』を徹底追及 内藤戦『疑惑の拳』告発写真」という記事を掲載。 亀田から名誉毀損で東京地裁に提訴される。 2012年3月27日、300万円の賠償命令。 2012年1月1・6日号からスタートしたによる連載「化城の人 との80年」(同年6月に第1部が終了し、その後連載休止中)について、当時の・の(「量が多すぎてツイッター向きでない、苦笑。 」)をきっかけに、・剽窃疑惑が持ち挙がった。 による検証記事は、同連載の第1回で、よりによって「敵方」ともいうべきのフォトエッセイ集『創価教育の源流 』から10ヵ所もの盗用があったとしている。 2012年8月17・24日合併号において、がでの候補者養成目的で作成している「維新政治塾」の全塾生888名分の名簿(氏名・職業・性別・年齢など)が流出・掲載された。 これに関して代表・は塾生向けに謝罪。 名簿は維新の会の限られた人物しか閲覧できず、流出は内部の人間が行なったことと見て、大阪維新の会で調査が進められた。 他のマスメディアが、橋下徹に対して「被害届は出さないのか」との質問には「罪名が見当たらない」と答え、被害届は出さなかった。 2015年5月22日号で、「『』のデメリットについて明確な論拠を提示できていない」と反対派を糾弾する一方、「公選の区長らの競争が生まれ逆にサービス向上につながる」とする都構想に賛成寄りのコメントを掲載して、を擁護した。 2015年5月29日号(2015年5月18日発売)にて、「 〈政権中枢大激震〉に流れた「マネー」3,000万円重大疑惑スッパ抜く」の記事と同一ページに、が出稿した協賛TOOTH FAIRYプロジェクトの広告を掲載、及びが謝罪することとなった。 2016年2月1日号で、のの交際記事「TBS小林悠アナ 超セレブ男性とで密着の現場撮」を掲載。 TBSテレビの報道番組「」で、の後任になることが決まっていた小林が、2016年をもってを依願退職した。 2019年9月13日号で『なんかいらない!厄介な隣人にさようなら。 』という見出しを掲載した。 この記事について知識人から強い反発を受け、後に謝罪する事態となった。 、などはポストのみならず、との断絶を表明した。 ただしポスト自身は、その後も特集を継続している。 連載記事 [ ]• (、1991 - 2007年)• (、1992年 - )• 綾小路きみまろ「夫婦のゲキジョー」(、2008年 - )• やくみつるのマナ板紳士録()• ドキドキの時間() 過去に連載された作品• (原作: 作画: 作画原案:)• (原作:小池一夫 作画:)• シリーズ(原作: 作画: 第1部に相当する『票田のトラクター』は連載)• 新・票田のトラクター• 票田のトラクター五輪見参• (作画: 原案協力:色山好蔵)• 時男〜愛は時空を超えて〜() 脚注 [ ]• www. j-magazine. 2019年6月30日閲覧。 (インターネットアーカイブによる2009年3月8日分キャッシュ)• (インターネットアーカイブによる2009年5月16日分キャッシュ)• 、日本ユニ著作権センター。 - 2019年2月12日閲覧• 、日本ユニ著作権センター。 - 2019年2月12日閲覧• : : pp. 2-3. 2015年6月9日 外部リンク [ ]• (週刊ポストを核とした小学館のニュースサイト 「セブン」とあるようにの記事も収録されている)•

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週刊ポストの「嫌韓ヘイト」はどこが問題なのか 「国民感情」を煽っているのはだれか

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絶句するような嫌韓ヘイト特集を掲載した「週刊ポスト」 この約2カ月にわたってほぼすべてのワイドショーが嫌韓報道を繰り広げ、ついに先週のTBS系ワイドショー『ゴゴスマ〜GOGO!Smile!〜』(CBCテレビ)では、武田邦彦・中部大学教授が「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しなけりゃいかんからね」とヘイトクライム煽動をおこない、さらには東国原英夫が韓国人女性の金慶珠・東海大学教授に対し「黙って、お前は! 黙っとけ!この野郎」「(金氏は)ビジネス反日」などと韓国ヘイトと女性蔑視丸出しで面罵するという事件が起こった。 だが、底が抜けているのは、テレビだけではない。 きょう発売の「週刊ポスト」(小学館)も、絶句するような嫌韓ヘイト特集を組んでいる。 表紙にでかでかと打ち出されたタイトルは、こうだ。 「「嫌韓」ではなく「断韓」だ 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」 まるで「WiLL」「月刊Hanada」「正論」などのネトウヨ極右雑誌かと見紛うようなタイトルだが、その中身もおぞましい。 特集の2つ目の目玉として掲載されているのは、こんな記事だ。 こんな見出しが、表紙だけではなく、新聞広告や電車の中吊り広告にまで大々的に躍ってしまったのである。 しかもこの記事は、中央日報2015年4月5日付の日本語版記事にある〈大韓精神健康医学会がこのほど実施した調査の結果、韓国の成人の半分以上が憤怒調節に困難を感じており、10人に1人は治療が必要なほどの高危険群である〉という部分を引用した上で、〈日本人には理解しにくいレベルの怒りの発露は、「反日活動」でも見られる〉〈なぜ、彼らはここまで怒り続けるのか〉と無理やりにつなげたヨタ記事。 怒っている理由はほかならぬ安倍政権が、大日本帝国主義丸出しで個人と企業が当事者である元「徴用工」判決にいちゃもんをつけ、さらにはその報復で経済制裁をかけたことにあるというのに、そんなことは無視して「病理」などと決めつけるとは、下劣で悪質極まりないものだ。 そもそも「週刊ポスト」は、同じ小学館が発行し、歴史修正主義を商売にしてきた「SAPIO」と同様、古くから嫌韓記事を連発してきた週刊誌だが、ここ最近も嫌韓ムードに乗じてヘイト記事を乱発。 なかでも、8月9日号では〈韓国が繰り出す「嘘」「誇張」「妄想」を完全論破する「日本人の正論」50〉なるヘイト本を記事にしたような特集をおこなっていた。 そして、この状況下で、ついに小学館という老舗大手出版社の看板週刊誌が、表紙にヘイトスピーチを堂々と掲載したのである。

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『週刊ポスト』の下劣ヘイト記事「韓国人という病理」に作家たちが怒りの抗議! ヘイト企画は「小学館幹部取締役の方針」の内部情報|LITERA/リテラ

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週刊ポスト問題についていくつものメディアから電話で取材を受けた。 どれにも同じことを言っているのだけれど、切り取り方はそれぞれである。 同じことを繰り返すのも面倒なので、ブログに「コメント」を上げておく。 ネット上のテクストはすべてコピーフリーなので、ご自由に切り取って使ってくださって結構である。 複製許諾も不要。 『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 韓国なんて要らない」というタイトルで韓国批判記事を掲載した。 新聞に広告が載ると、直後から厳しい批判の声が上がった。 同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。 続いて、作家の柳美里さんも韓国籍で日本に暮らしているが、「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。 私もお二人に続いて「小学館とは二度と仕事をしない」とツイッターに投稿した。 その後もかなりの数の人たちが同趣旨の発言をされたようである。 それで終わるのかと思っていた。 どうせ『週刊ポスト』も「炎上上等」というような気分で広告を打ってきたのであろう。 「おお、話題になった。 部数が伸びる」と編集部では高笑いしているのだろうと思っていた。 腹の立つ話だが、所詮、「蟷螂之斧」である。 私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。 10年ほど前に観世のお家元と共著で能の本を出したのと、小津安二郎のDVDブックにエッセイを書いたくらいしか小学館の仕事はしたことがないし、いまもしていないし、雑誌に連載も持っていない。 そんな男が「もう仕事をしない」と言ってみせても、ただの「負け犬の遠吠え」である。 ところが、意外にも、2日午後に版元の小学館から謝罪文が出された。 「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。 というところで取材がばたばたと続くことになった。 この件について幾つかのテレビや新聞から取材を受けたが、とりあえず 私が『週刊ポスト』編集部に言いたいのは「あなたがたには出版人の矜持はないのか」ということに尽くされる。 『新潮45』の時にも同じことを書いたが、あえて世間の良識に反するような攻撃的で差別的な言葉を世間に流布させる時には、出版人はそれなりの覚悟を決めるべきだ。 私なら覚悟を決めて書く。 書いたことが「炎上」して火の粉が飛んで来て火傷したら、それは「身から出た錆」だと思う。 それが物書きとしての「筋の通し方」である。 まさか、書いたあとに「炎上」したからと言って、「あれは書かなかったことにしてください」とは言わない。 しかし、『新潮45』の騒ぎのときには「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という社長名の指摘に編集部は一言の反論もしなかった。 仮にも自分の責任で公にした文章である。 ならば、自分自身と彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るために、編集長は社長宛ての辞表を懐に呑んで、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったろう。 でも、彼はそうしなかった。 記者会見を開くことも、他誌に新潮社批判を書くこともなかった。 これは出版人としていくらなんでも「覚悟がない」態度と言わなければならない。 あえて好戦的で、挑発的な記事を掲載しておきながら、「炎上」範囲が想定外に広がると、たちまち泡を食って謝罪する。 この「覚悟のなさ」に私は今の日本のメディア関係者たちの底知れない劣化の徴を見るのである。 彼らが簡単に記事を撤回できる理由はある意味簡単である。 それは それが「職を賭しても言いたい」ことではなかったからである。 どうしても、誰に止められても、言わずにはいられないというくらいに切羽詰まった話であれば、ネットでつぶやかれる程度の批判に耳を傾けるはずがない。 むしろ、「ほう、三文文士の分際で小学館相手に喧嘩を売るとはいい度胸だ。 全力で叩き潰してやるから首を洗って待ってろ」くらいの構えで応じてよかったはずである。 でも、そうならなかった。 ということは、『週刊ポスト』の記事は「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。 この事件で第一に言いたいことは、市民的常識を逆撫でして、世の良風美俗に唾を吐きかけるような言葉を発表するときには、それなりの覚悟を決めてやってくれということである。 それで世間から指弾され、発言機会を失い、場合によっては職を失って路頭に迷うことを覚悟してやれということである。 覚悟がないなら書くな。 これが第一に言いたいことである。 第二に言いたいことは、実はもっと深刻である。 それは「職を辞してまで言いたいこと」ではないにもかかわらず、そういう言葉が小学館のような老舗で、良識ある出版社の出版物で「ぺろっと」口から出てしまったということである。 世の中には「職を賭しても言いたいこと」とは別に、 「職を賭してまで言いたいわけではないが、職を賭さないで済むなら言ってみたいこと」というがある。 うっかり人前で口にすると品性知性を疑われるリスクがあるので、ふだんは呑み込んでおくびにも出さないのだが、「言っても平気だよ」という保証が与えられたら、言ってみたい。 そういう言葉である。 私は今の嫌韓言説は「それ」だと思っている。 韓国政府と韓国国民については、いまどれほど非常識で、下品で、攻撃的なことを言っても「処罰されない」という楽観が広く日本社会に拡がっている。 現に、周りをきょろきょろ見回してみたら、「ずいぶんひどいこと」を言ったり、書いたりしている人たちがいるけれど、別に処罰もされていないし、仕事も失っていないし、社会的威信に傷がついたようにも見えない。 なんだ、そうか。 いまはやってもいいんだ・・・そう思った人たちが「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」をぺらぺら語り出したのである。 それが現在の嫌韓言説の実相であると私は思っている。 日本人がこれほど集団的に卑劣にふるまうようになった責任はもちろん一義的には政府にある。 政権末期に政治的浮揚力を得るために隣国に喧嘩を売ってみせるというのは凡庸な為政者が歴史上繰り返しやってきたことである(李明博も政権末期に竹島に上陸するパフォーマンスで支持率を回復したことがある)。 外交上の悪手でありながら、そういう挑発が繰り返されたのは、有効だということが知られていたからである。 隣国に喧嘩を売るというのは、長いスパンで考えると有害無益のふるまいだが、短期的に見ると政権支持率が一時的に回復する。 だから、たとえ国益を損なっても、政治的延命を図りたい政治家がそうするのは冷徹なマキャヴェリズムの論理的帰結である。 そこには一抹の論理性がないではない。 だが、その尻馬に乗ってぺらぺら語り出される嫌韓言説には、そのような論理性がない。 その非論理性が私にはむしろ恐ろしいのである。 メディアが嫌韓に唱和する最大の理由は「売れる」とか「数字がとれる」ということだという説明がなされる。 現に、嫌韓本や嫌韓雑誌の作り手たちに個人的に訊いてみると、ほぼ例外なく「こんな本、ほんとうは作りたくないんです。 でも、売れるからしかたないんです」という言い訳を聞かされる。 「金が欲しいので、ほんとうはそう思っていないことを書く。 金が要るので、ほんとうは支持していない政治的主張を本にする」というのは矛盾しているようだが、実は合理的な言明である。 「金がすべてに優先する」というのはひとつの原則的立場だからである。 「すべては金だ」で人生を首尾一貫させているなら、それはそれで整合的な生き方だと言えるだろう。 だから、彼らは「ほんとうはイヤなんです」と言うことを通じて、「自分のふるまいには論理的整合性がある」と主張しているのである。 たしかに、そういう要素もあるのかも知れない。 そういうふうに「シニカル」にふるまっていると、ちょっと賢そうに見えると思っているのかも知れない。 けれども、嫌韓言説をドライブしているのは、それほど「シニカル」で計算高い思考ではない。 もっと見苦しく、薄汚い心性である。 彼らが「嫌韓」という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。 ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。 だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。 「処罰されない」なら・・・と期待して、精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。 だから、「処罰」がちらついた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消えたのは怪しむに足りない。 「処罰されないなら公言してみたいが、処罰されるくらいなら言わないで我慢する」ということである。 そうした方がいいと思う。 だが、彼らが忘れていることがある。 それは、 人間の本性は「処罰されない」ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化されるということである。 「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。 そして、そういう局面でどうふるまったかを私は忘れない。 それがその人間の「正味」の人間性だと思うからである。 平時では穏やかで、ほとんど卑屈なように見えていた人間が、「何をしても咎められない」状況に身を置いた瞬間に別人になって、人を怒鳴りつけたり、恥をかかせたりという仕事にいきなり熱心になるということを私は何度も見て来た。 「そういう人間」の数はみなさんが思っているよりずっと多い。 そして、彼らがどれほど「ひどい人間」に変貌するかは、平時においてはまずわからないのである。 だから、私は人間を簡単に「咎められない」環境に置かない方がいいと思っている。 で きるだけ、法律や常識や「世間の目」などが働いていて、簡単にはおのれの攻撃性や卑劣さを露出させることができない環境を整備する方がいいと思っている。 今の日本はそうではない。 一種の倫理的な「無秩序」状態になっている。 倫理的にふるまう人(正確には「倫理的にふるまう人が一定数いないと社会は維持できない」ということを知っている人)を「かっこつけるんじゃねえよ」と冷笑することが批評的な態度だと勘違いしている人たちがすでに言論の場では過半を占めようとしている。 このような無秩序がこのまま続くのかどうか、私にはわからない。 続くなら日本にもう未来はないということしかわからない。 (2019-09-05 14:11)•

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