コロンブス。 クリストファー・コロンブス

コロンブスは何をしたのか?アメリカ大陸発見の真実をわかりやすく解説

コロンブス

大航海時代においてスペインの航海者として開拓を行ない、当時の白人としては初めてアメリカ大陸を発見した人物として知られています。 画像:Sebastiano del Piombo コロンブスは新大陸を発見したことから一部の人々の中では長らく英雄とされてきました。 しかし、先住民族を大虐殺したことから最近では悪名高い侵略者として非難の的にもなっています。 ちなみにコロンブスという名前は英語であり、出身地のイタリアでは「コロンボ」と発音します。 イタリアのジェノヴァで生まれたとされていますが、これには根拠がないため中にはポーランドの王子だったのではないかという驚くべき説まで存在します。 しかし、コロンブスが王子やユダヤ人であるという証拠があるわけではなく、これらも創作の一種であるという見方が一般的です。 コロンブスは貧しい家に生まれたと考えられており、父親は織物を売って生計を立てていたといわれています。 そのため、コロンブスは幼い頃から苦労人だったとされているのです。 彼は若くして商売のために船に乗り、織物の他に酒やチーズなどを売り歩きました。 画像:Museo Nacional de Arte しかし、海の商売は危険を伴い、コロンブスが25歳のときには乗っていた船がフランス海軍から攻撃を受け沈没しました。 コロンブスは海に投げ出され、オールにしがみ付きながら近くの島まで泳いで逃げたといわれています。 命の危険に晒されながらもコロンブスは航海者として成長していき、弟のバルトロメと地図を売りながら、やがてある程度の成功を収めるようになりました。 フェリパは貴族の娘であり、コロンブスとは修道院のミサがきっかけで知り合いました。 画像:pixabay 当時は結婚に身分が強く影響していましたが、コロンブスが航海士として成功していたためフェリパと結婚できたのではないかといわれています。 また、結婚時のフェリパは25歳であり、当時にしては晩婚だったことも身分差を許された理由だと考えられています。 それは東方見聞録に記された黄金郷「ジパング(日本)」に到達することでした。 そのためにコロンブスは独学でスペイン語やラテン語、地学や天文学まで習得し、航海士としての能力を鍛えています。 画像:Orlando Ferguson 中世のキリスト教では「世界はヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸で構成されている」という考え方が一般的でした。 また、当時は地球平面説に代わり「地球球体説」が信じられるようになっていたのです。 そのためコロンブスは大西洋を進んで行けば地球を一周して反対側のアジアにたどり着くことができると考えたのでした。 しかし、実際にはアメリカ大陸が存在するため、コロンブスはアメリカに到達することになるのです。 コロンブスはジパングを植民地にできれば溢れんばかりの金銀財宝を手に入れることができると説明したのです。 コロンブスは提案力に優れており、ジョアン2世は計画に強く興味を持ったといわれています。 しかし、後述するようにコロンブスが提案した自身の取り分があまりに法外だと判断されたため、援助と許可を得ることができませんでした。 画像:Emanuel Leutze ポルトガルでの援助をあきらめたコロンブスはスペインに渡り、そこで貴族のメディナ・セリ公から物資の支援を得ることに成功します。 そして、王室の許可を得るためにメディナ・セリ公の推薦の下、カスティーリャ女王イサベル1世に航海計画を提案したのです。 イサベル1世はコロンブスの提案に強く惹かれましたが、夫のフェルナンド2世があまり興味を示さなかったため、回答は延期されてしまいます。 そのためコロンブスはスペインでの許可をあきらめ、フランスに向かうことにしました。 ところがコロンブスが旅に出たタイミングでスペインの許可がおり、ギリギリのところでコロンブスはジパングを目指して航海ができることになったのです。 その内容は、コロンブスが発見した領地の監督権を持ち、その地で起きた問題への裁判権も得るというものでした。 さらに発生する利益の1割をコロンブスのものとし、他領域への航海でも彼自身が負担した航海資金の割合と同じだけ、利益を分配して欲しいと主張しました。 画像:pixabay しかし、スペイン王朝はジパングを植民地にできれば十分に利益を得られると考え、コロンブスの提案を受け入れる「サンタフェ・契約」を結んだのです。 実際にアメリカ大陸に到達した後はこの契約に従い、コロンブスは利益と地位を獲得しています。 3隻の大型船と90人の乗組員を従えたコロンブスは、当時未知の領域とされていた大西洋へと繰り出しました。 しかし、コロンブスは大陸間の距離を実際よりもずっと短く計算していたため、中々大陸を発見することができなかったのです。 画像:pixabay また、当時は地球球体説が浸透してきてとはいえ、船乗りの中には地球平面説を信じている者もまだまだ少なくなかったのです。 大陸が発見できず海の果てへ落ちる恐怖に怯えた乗組員たちは暴動を起こし、コロンブスに残り三日で進展が無ければ帰国するという約束をさせました。 しかし、その後流木を発見したコロンブスは陸が近いと船員たちを鼓舞し、出向から2ヵ月ほどで未知の新大陸に到達したのです。 彼はこの島を「サン・サルバドル島」と名付けます。 その後、フアナ島(キューバ島)やイスパニョーラ島にも到達し、アメリカ大陸で初めてのスペイン入植地を確保しました。 これらの島々にはもともと先住民族が暮らしており、サン・サルバドル島のアラワク族などは突然海から現れたコロンブスたちを「天の使い」だと考えました。 そのためコロンブスたちはたくさんの食料を振る舞われ大歓迎を受けたのです。 また、コロンブスは月食を予測して言い当てることで先住民族たちを驚かせたともいわれています。 また、万物は万人の物という考え方であったため、コロンブスが渡せと言ったものは全て嫌がらずに献上したのです。 しかし、コロンブスは彼らを奴隷としてしか見ておらず、何人もの先住民族を強制的に連れ去ってしまいます。 そして彼らの持っていた真珠や宝石などの財宝も強奪していったのです。 旅の成功を確信したコロンブスは入植地に38人の船員を残し、スペインに帰国しました。 コロンブスは英雄として扱われ、約束通り発見地の監督権と強奪品の1割を手にしたのです。 彼は二度目の航海の支援と許可を国に求め、今度はあっさりと可決されています。 画像:Christopher Kolumba コロンブスは次の航海の成功も確信しており、二度目の航海について次のように語ったと記録されています。 「私は望まれるだけの黄金と、望まれるだけの奴隷を連れて戻ろう。 一見不可能に思える物事でも、神は信じる者に勝利をお与えになるのだ。 また、周辺の島に住むルカヤン族、カリブ族、タイノ族も白人の横暴さに憤慨し、抵抗の意を示したのです。 彼らはコロンブスたちは天使などではなく、危険な侵略者であることに気付いたのです。 これに対してコロンブス率いるスペイン軍は大虐殺による非人道的弾圧を行なったのです。 画像:John Vanderlyn コロンブスは彼らをインディアンと呼び、まるで動物でも狩るように殺戮を繰り返しました。 罪のない先住民族たちは財産を奪われ、次々に殺されていったのです。 女性は乱暴され、殺されなかった男性たちも酷い拷問を受けることになりました。 その後、コロンブスが病に倒れたことで虐殺はさらに苛烈になり、5万人を超えるインディアンが殺されてしまいます。 初めは天使だと思われたコロンブスは先住民族にとっての「死神」になってしまったのです。 コロンブスには奴隷商人としての顔もあり、スペイン王朝に奴隷を送ることで自身の評価がさらに上がると考えたのです。 しかし、これに驚愕したイザベル女王は彼ら故郷に送り返し、コロンブスの統治実態を視察するための調査委員を派遣します。 画像:Eugene Delacroix コロンブスは慌てて本国に帰還し、イザベル女王に謁見しました。 そして、先住民族への厳しい統治も黄金をスペインに持ち帰るために仕方なくやったことだと説明したのです。 コロンブスの先住民族への仕打ちは非人道的であり、決して許されることではありませんでした。 しかし、国の利益を優先した当時の王朝はこれに目をつぶってしまいます。 コロンブスは先住民族たちに対し、期限までに一定量の黄金を献上するように命令しました。 そして、これを達成できなければ性別に関係なく彼らの手首を切り落としていったのです。 しかし、アジアでも黄金郷でもないアメリカ大陸にコロンブスたちを満足させるほどの黄金は存在しませんでした。 画像:pixabay 先住民族たちは生活のほとんどを黄金探しに費やすしかなくなり、毎日支配に怯えながら飢えて困窮していきました。 さらにコロンブスたちが持ち込んだ未知の病気にも苦しむことになったのです。 この頃にはコロンブスも自分が発見したのはインドではないことに気が付いていました。 しかし、彼は黄金探しを中止することはなく、800万を超えていた先住民族たちの人口は最終的には3分の1にまで減少してしまったのです。 彼らは罪のないインディアンの死に様を賭けの対象にしたり、ひとりの逃亡者を軍単位で狩りでもするかのように追い回したりしたのです。 画像:Virgen de los Navegantes しかし、コロンブスの統治の残虐性についてスペイン本国でも再度問題視されるようになっていきます。 そして遂には逮捕され本国に強制送還されてしまいました。 コロンブスは国家にもたらした利益の多さから何とか罪を免れましたが、手に入れた全ての権利と地位を剥奪されてしまいます。 しかし、国から許可は下りたものの支援されたのは使い古された小型のボート4隻だけでした。 画像:pixabay それにもめげずに航海に出たコロンブスでしたが、結果的に船が難破し救助されるという形でスペインに帰還しています。 また、コロンブスを長年支持していたイサベル女王が亡くなったことで、国からはさらに冷遇されることになってしまいました。 帰国後は病気になり、これ以降は航海に出ることもできなくなってしまいます。 一時期は国の英雄として扱われたコロンブスでしたが、晩年は残虐な航海士として不名誉の中で死ぬことになったのです。 そのためコロンブスは初めてアメリカ大陸を発見した人物ではなく、「白人で初めてアメリカ大陸に到達した人物」ということになります。 画像:Amerigo Vespucci ヨーロッパ大陸では古くからアメリカ大陸のことを発見者であるコロンブスにちなんで「コロンビア」と呼んでいました。 しかし、現在では南米大陸の発見者は「アメリゴ・ヴェスプッチ」という人物であるとされており、その理由から新大陸は「アメリカ」と呼ばれるようになっていったのです。 コロンブスは当時未知だった大西洋の航海路を開拓した人物として評価されていますが、その後の統治の悪さから今でも否定的な意見が後を絶ちません。 そのため大航海時代の海賊「ヴァイキング」がずっと前にアメリカ大陸に到達していたと考えられるようになりました。 画像:Leif Ericson このことからコロンブスが白人で初めてアメリカ大陸に到達したという事実も覆ってしまったのです。 また、サツマイモなどの作物が南米からヨーロッパに持ち込まれた可能性があるため、古代ポリネシア人もコロンブスより先にアメリカに到達していたのではないかといわれています。 新大陸を発見したコロンブスでしたが、彼の成功を妬んで「西に行けば誰でも発見できただろう。 」と嫌味を言われることがありました。 その際にコロンブスは近くにあった卵を手渡し、「これを机に立ててみてください。 」と言ったのです。 そして、誰も出来ないのを確認してから、卵の先を机で平らに割って立たせてみせたといわれています。 「そんな方法なら誰でもできるだろう。 」と人々は不満を述べました。 するとコロンブスは「人がやったのを見た後でなら誰でもそういうのです。 難しいのは最初にそれをやることです。 」と言ったのでした。 画像:pixabay この逸話はコロンブスの聡明さと柔軟さを表す逸話として有名になりました。 しかし、これと全く同じことをやった偉人が前時代に存在したため、これは後世の人々の創作なのではないかといわれるようになったのです。 元になったのはイタリアの建築家「フィリッポ・ブルネレスキ」が、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の設計に立候補したときの逸話でした。 フィリッポが設計図を見せずに立候補したことに他の建築家たちが憤慨しました。 するとフィリッポは卵のくだりをやって見せた後で、「最初にやるのが難しいのです。 私が設計図を見せたらあなた達は真似をするのでしょう?」と言ったといわれています。 出典参考: 画像:Sebastiano del Piombo いかがでしたか?世界的に有名な大航海時代の探検家コロンブスについてご紹介しました。 コロンブスは航海士としては優秀だったに違いありませんが、自身の欲のために多くの人々を不幸にしてしまったのです。 とはいえ未知の大陸を探しての航海には憧れるものです。 世界にはまだまだロマンが溢れています。

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コロンブスとは?アメリカ大陸を発見した経緯や航路、「コロンブスの卵」の意味について解説!

コロンブス

コロンブス(Columbus )• - の・・商人。 としてはじめて海域へ到達した。 - 『』に登場する補給艦。 - 日本の2人組の女性お笑い芸人。 (原題: ) - 1992年のアメリカ映画。 監督作品。 (原題: ) - 1992年のアメリカ映画。 監督作品。 - 1992年にが発売したファミリーコンピュータ用ソフト。 - 靴磨き・靴用品を製造・販売する東京都の企業 関連項目 [ ]• - の地名 このページは です。 一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。 お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。 を見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

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感染症の歴史

コロンブス

スポンサーリンク 15世紀から17世紀半ばまでの世界は、ヨーロッパ人によって世界各地への大規模な航海や開拓が行われた「大航海時代」を迎えていました。 この大航海時代の中ではが発見され、現在のアメリカ大陸に存在する国々や人々が形成されていくことになったのです。 そして、このアメリカ大陸発見を成し遂げ、その後の世界へ大きな影響を与えたと言われるのが「クリストファー・コロンブス」。 大航海時代の探検家であり航海者であり、幾度にも渡る航海の末に、ついにアメリカ大陸へたどり着いた人物です。 この記事では、そんなコロンブスについて、基本的な知識から生涯、そして、知っておきたい6つの話までを紹介していこうと思います。 1492年、1493年、1498年、1502年の4回に渡って、スペインを出発して大西洋を横断する旅に出ました。 コロンブスは、 「 ヨーロッパとアジアを直接結ぶ西回りの航路」を発見しようと挑戦し続けましたが、アジアまでの航路の発見には至りませんでした。 しかし その代わりに偶然、コロンブスはアメリカ大陸を発見したのです。 このように、大航海時代の探検家としてコロンブスは意図せずに「 アメリカ大陸発見」を成し遂げたわけですが、アメリカ大陸にはすでに何百万の先住民が住んでいたことを考えると、真の意味で新世界 (注)を「発見」したわけではありません。 しかし、 コロンブスによるアメリカ大陸の発見は、ヨーロッパ諸国へ大きな影響を与え、その後、数世紀にも渡るアメリカ大陸の征服と植民地化の口火を切るきっかけとなったことは確かなのです。 大航海時代に探検家となったクリストファー・コロンブスの生涯 当時の背景:大航海時代が始まっていたヨーロッパ諸国 15世紀から16世紀において、いくつかのヨーロッパ諸国の指導者達は、探検家たちが莫大な富と広大な未発見の土地を見つけてくれることを期待し、海外遠征を援助しました。 その中でも 「大航海時代の先駆者」と言えるのが ポルトガル。 そして、当時の時代背景的に航海者や探検家を目指す者が多かったこともあり、 コロンブスは10代で商船での仕事に就きました。 しかし1470年、コロンブスの乗った船はポルトガル沿岸を北へ向かっていたところ、フランスの略奪船による攻撃にあって沈没。 海に投げ出された コロンブスは何とか羊毛のかたまりにしがみついて岸まで流れつき、ポルトガルのリスボンにたどり着いたのです。 その後、コロンブスはリスボンで、 数学、天文学、地図作成法、航海術を学び、この時期に 世界を永遠に変えることになる計画の構想を、密かに練り始めるのです。 コロンブス初航海までの道のり 15世紀末、ヨーロッパからアジアへ陸路で到達することはほぼ不可能でした。 道のりは長くて厳しく、行く先々で攻撃の標的になる危険性があったからです。 そこで ポルトガルの探検家は、この問題解決のために海に目を向け、西アフリカ沿岸を南下し喜望峰を回る航路を開拓しました。 しかし、コロンブスには別の考えがあったのです。 巨大なアフリカ大陸を廻るかわりに、大西洋を西へ横切って航海したらどうだろうか? コロンブスの考えは理論的には間違えていませんでしたが、計算には誤りがありました。 コロンブスはこの計画をポルトガルやイギリスの役人に提示し続けましたが、ようやく興味を持ってくれる人物を見つけられたのは1491年になってからでした。 その人物とは、スペインの君主であったアラゴン王国の「 フェルナンド2世」と、その妻でありカスティーリャ王国の「 イザベル1世」でした。 スペイン王室の支援を受けることに成功 フェルナンド2世とイザベル1世に謁見したコロンブスは、スペインのために航海を成功させる条件として「 富」と「 名声」を手に入れることを提案。 敬虔なカトリック信者であったコロンブスは、もちろんこの要求に対して異論はありませんでした。 こうしてコロンブスは、1492年にスペイン王室との契約「 サンタ・フェ契約」にこぎつけ、その内容は、• 貴族の称号を与える• 発見した土地の統治権を手に入れる(統治者の地位が約束される) というものだったのです。 ついに初航海が始まった 1492年8月3日、コロンブスと乗組員は、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号の3隻に分かれてスペインを出航。 そして同年10月12日、コロンブス一行はついに「 上陸」を果たします。 しかし、 そこは想定していたアジアではなく、バハマ諸島にある島の1つでした。 とにかくこれにより、 新大陸(アメリカ大陸)ではないものの、 アメリカ大陸に近いアメリカ海域へコロンブスは到達したのです。 その後、コロンブスは何か月にもわたって、現在のカリブ諸島の島から島へと航海を続け、スペイン王夫婦と約束した「真珠、宝石、金、銀、香辛料、その他の価値のある品々」を探し求めました。 その後、1493年3月、イスパニョーラ島 (現在のハイチとドミニカ共和国の一部)に築いた仮設入植地へ40人ほどの乗組員を残し、コロンブスは一旦スペインに帰還します。 その後の航海からアメリカ大陸発見まで 2度目の航海 それから約6か月後の1493年9月、コロンブスは2度目の航海に出ました。 この入植地を再建するために、弟のバルトロメとディエゴ、乗組員の一部、奴隷にした多くの先住民をそこに残し、自らはさらに西へと航路をとりました。 しかし、 その航海の中でコロンブスは、思ったほどの金銀財宝やその他の貴重な品々を発見することが出来ません。 そこでコロンブスは、スペイン王国に約束していた金銀財宝の代わりとして、 数百人にも上る奴隷を本国に送ってイザベル女王に献上。 しかし、コロンブスが「発見した」人々は既にスペインの民であって奴隷扱いは出来ないと考えていた女王はひどく驚き、この贈り物を送り返した結果、コロンブスは慌てふためき、釈明のためにスペインへ一旦帰国します。 奴隷商人としての顔を持っていたコロンブス ちなみに、新大陸の発見ばかりが注目されるコロンブスですが、実はその航海を続けていく中で、「 奴隷商人」としての非情な側面も持ち合わせていました。 コロンブスは発見した土地の原住民達を、 人間ではなく資源または商品として考えていたようなのです。 実際、1回目の航海の後、何人かの原住民を連れ帰り、2回目からはもっと沢山の原住民をスペインへ送っています。 そして、2界目の航海においては、見つけた 先住民達に対して徹底的な虐殺行為を行ったと言われ、彼らの住居は破壊され、所有物は略奪されました。 先住民達も反旗を翻すこともありましたが、近代的な武器を持つコロンブス側との戦力差は明白で、2回目の航海が終わる頃には5万を超える先住民が殺され、また、 コロンブスの先住民に対する襲撃戦略はその後、スペイン人が繰り返した虐殺モデルとなって10数年続いたとされます。 ついに「新大陸」であるアメリカ大陸を発見するが・・・ 1498年5月、コロンブスは3度目の大西洋横断の旅に6隻の船で出ました。 そして、この3度目の航海では、以前の2回よりも南寄りの航路を取った結果、現在の ベネズエラのオリノコ川の河口に上陸。 これによって、ついにコロンブスはアメリカ大陸へ到達し、ここに、歴史上有名な「 コロンブスによるアメリカ大陸発見/新大陸発見」が成されたのです。 その後、アメリカ大陸を一度後にしたコロンブスは、イスパニョーラ島の入植地に立ち寄りました。 しかしそこでは、 コロンブスの弟達による劣悪な統治と残忍な行為に耐え切れなくなった入植者たちが、大反乱を起こしていたのです。 結果、あまりに酷い状況を見かねたスペインは、新しい監督者を派遣せざるを得なくなると同時に、クリストファー・コロンブスは逮捕され、鎖につながれた状態でスペインに送還されました。 クリストファー・コロンブスの最期 1502年、重罪は免れたものの貴族の地位をはく奪されたコロンブスは、最後にもう一度だけ航海を援助してくれるようスペイン国王にお願いし、その説得に成功。 4度目の航海でコロンブスはパナマまで到達し、その周辺を半年ほどさまよいましたが、最後は難破してしまい、1504年11月になんとかスペインへ帰国。 そして、1504年末に支援者の一人であったイザベル女王が死去すると、スペイン王室のコロンブスに対する扱いは冷淡なものとなります。 それからおよそ1年と半年後の1506年5月20日、クリストファー・コロンブスはこの世を去るのでした。 クリストファー・コロンブスにまつわる6つの話 大航海時代にアメリカ大陸発見を成し遂げ、ヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化のきっかけを作ったクリストファー・コロンブスの生涯を見てきましたが、最後に、コロンブスにまつわる興味深い6つの話を紹介しておきましょう。 クリストファー・コロンブスの正しい表記や読み方の謎 一般的に知られる「クリストファー・コロンブス」という名前は、彼の名前を英語表記した「Christopher Columbus」を発音した名前。 ただし、コロンブスの素性に関しては歴史的資料が少なく、 「ジェノヴァ人」であるかどうかも不確かなため、最も正しい名前の表記や読み方については謎だったりします。 かの有名な旅に、あやうく出られないところだった コロンブスにって、旅の資金を集めるのは至難の業でした。 ポルトガルの王などあちこちから援助を受けようと試みましたが、 ヨーロッパの多くの統治者らはコロンブスを変人と思い、見向きもしなかったのです。 また、最終的には1491年にスペインの国王夫婦に謁見することが叶っていますが、それまでコロンブスは、スペインからの資金援助を得るために、実は何年間もスペイン王宮の周りをうろついていたとさえ言われます。 そして、 スペイン王室から旅の許可が得られたという知らせをコロンブスが聞いたのは、 説得を諦めて1492年にフランスへ向かったまさにその時でした。 コロンブスはケチだった かの有名な1492年の航海で、コロンブスは 陸地を最初に見つけた者に金貨を報酬として与えると約束していました。 そして実は、 ロドリゴ・デ・トリアナという船員が、コロンブスが後にサン・サルバドル島と名付けた、現在のバハマにある小さな島を1492年10月12日に最初に見つけたと言われます。 しかしロドリゴは、 約束の金貨を受け取ることはなかったのです。 コロンブスは、「 ロドリゴが島を発見した前の夜に自分も同じ島を見つけていた」と主張。 なぜ見つけたのに言わなかったのかと言うと、 前夜は霞みがかっていて明かりも不明瞭で確信がなかったら皆に知らせなかった と理由を述べて、ロドリゴへ金貨を与えることを拒否したのです。 とても信心深かったコロンブス クリストファー・コロンブスはとても信心深く、 自分は発見の旅をするために神によって選ばれし者であると信じていたようです。 また、 コロンブスが発見した島や土地に付けた名前の多くは宗教的なものでした。 さらに、後年、コロンブスはどこへ行くにもフランシスコ修道会の修道服を着るようになり、裕福な提督というよりも、どちらかというと 修道士のような姿をしていたと言われます。 しかも、3回目の航海の時、 オリノコ川が南アメリカ北部の大西洋に流れ出るのを見たとき、コロンブスはそれを エデンの園だと思い込むようになったとも言われます。 コロンブスは新世界を発見したと思ってはいなかった アジアへの新航路を探していたコロンブスは、死ぬ間際まで、自分が見つけたのは「 アジアへの新航路」であり、また、見つけた土地は「 アジアの一部」だと言い続けていました。 コロンブスが見つけた土地がアジアではないことを示すたくさんの客観的事実はあったものの、 彼は日本や中国、モンゴル帝国皇帝の宮殿が、発見された土地の近くにあると信じ続けていたのです。 そしてついには、「 地球は洋梨のような形をしていて、アジア大陸が見つからなかったのは膨らんだ形のせいだ」という馬鹿げた理論まで展開するようになっていきました。 コロンブスの遺骨の本当の行方 コロンブスは1506年にスペインで亡くなり、その遺骨は1537年にドミニカ共和国のサントドミンゴに送られました。 その後、1795年にハバナに送られ、 1898年にはスペインに送り戻されたとされています。 しかし1877年、 サントドミンゴで コロンブスの名前の付けられた遺骨の入った箱が複数見つかったのです。 この結果、現在は スペインの セビリアとドミニカ共和国の サントドミンゴの2つの都市が、コロンブスの遺骨を所有していると主張しています。 合わせて読みたい世界雑学記事• クリストファー・コロンブスは、確かにアメリカ大陸に到達しましたが、人類で初めてアメリカ大陸を発見したわけではありませんでした。 しかしコロンブスの旅は、その後のアメリカ大陸を大きく変えるきっかけとなり、現在の世界を形作る歴史的に重要な分岐点の一つだったのです。

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