前田高地。 映画「ハクソー・リッジ」の舞台、沖縄の前田高地 72年前の激戦地から「今」見えるのは…

前田高地の戦い

前田高地

沖縄シュガーローフへの旅 5 沖縄 シュガーローフ への旅#5(嘉数台) 2018年 1月16日更新 今回、訪問したい戦跡はシュガーローフ&ハーフムーンの丘と、前田高地と嘉数台を周り、最後は家族のために国際通りで買物をなどをしようというプランで行動しました。 宿泊したダイワロイネットホテル那覇おもろまちの朝食会場は最上階の18階にあるで、展望が売り物で散歩してきたシュガーローフの丘も見下ろすことが出来ます。 朝食はビュフェスタイルですが味も良く、定番の朝食メニューの他にチャンプルーや海ブドウ、沖縄天ぷらなど沖縄料理もあり、自分で作る湯葉などがあって、なかなか美味しい。 同じ朝食料金の他のホテルの朝食内容よりもワンランク上の料理でした。 ほとんどがアジアからの観光客で、中国、台湾、韓国からのように見えます。 沖縄の日本軍第32軍の防衛計画は、サイパン島などの島嶼防衛の経験から、アメリカ軍が上陸してから内陸の防衛陣地に引き込んで防衛戦闘を行うという方式に変更しました。 それまでは水際の守備陣地で上陸してくるアメリカ軍を攻撃していましたが、アメリカ軍のとった強力な航空攻撃と戦艦を主体とした艦砲射撃で、守備側が壊滅に近い損害を受け、一定の損害を受けると、もはやこれまでとバンザイ突撃を行って玉砕してしまうというアメリカ軍にとって組しやすい戦法をとっていました。 、 ところがペリュリュー島、硫黄島の戦いからは日本軍は水際での防御は避けて、内陸に縦横に張り巡らせた洞窟陣地にによる防衛線に戦法を変更し、アメリカ軍にも大きな損害が出ました。 1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島中部の市に海岸、読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)にかけての海岸に上陸し、史上最大の上陸作戦アイスバーグ作戦が始まりました。 上陸に先立って今までの経験から、日本軍の水際防御陣地に対して激しい航空攻撃の他に加え、戦艦10隻を中心とした大小艦艇による3時間にも渡る激しい艦砲射撃を行いました。 しかし、上陸してみると日本軍の反撃はなきに等しく、一番困難な戦いになると想定した上陸作戦は成功しました。 その後、沖縄本島中部と北部への侵攻を開始し、北部には日本軍の守備部隊はわずか1個大隊しか配備されていなかったので、順調に侵攻は進んできました。 日本軍の中飛行場だったところも、ほぼ無血で占領し、整備して自軍の飛行場として使用するようになります。 (ここが戦後、嘉手納基地になりました) アメリカ軍は日本陸軍第32軍の司令部のある首里(那覇市)を目指します。 嘉数台地は標高90mのの台地で首里を守る第一防衛線の陣地でした。 アメリカ軍は上陸後、無抵抗に近い進撃をしていましたが、ここに来て始めて激しい抵抗に遭いました。 4月8日のことです。 アメリカ軍は2日で攻略する計画でしたが、16日間も戦いが続いた激戦地となりました。 この嘉数台地での戦いの後が、第二防衛線にあたる前田高地の戦いになります。 今回は、青い丸で囲んだ嘉数台を訪れ、その後に赤い丸で囲んだ前田高地を訪れることにしました。 激しい戦闘のあった嘉数台は宜野湾市の嘉数高台公園になっています。 この公園は二つの顔があり、一つは沖縄戦の戦争遺跡として。 もう一つはニュースで話題になっているアメリカ海兵隊の普天間基地を見渡す展望台になっていることです。 駐車場から公園に入り、台の上に上がる階段の手前に「弾痕の壁」があります。 嘉数台の近くの嘉数の集落にあった民家の壁が公園に移設され戦争モニュメントとして置かれています。 丘の頂上には120段の階段を昇って行きます。 階段の途中には日本軍の陣地壕の跡が残されいます。 台地の中は縦横無尽に壕が掘られて頑強な陣地になっていました。 壕までの道はきれいに草が刈られていて、人の背の高さ位の穴が開けられています。 壕はアメリカ軍が進撃してくる側の反対側に掘られているので、出入口は直接射撃を受けることがない陣地は、反斜面陣地と呼ばれています。 この方式の陣地は特に沖縄戦では有効でした。 壕の中を覗くと、当時の兵士がアメリカ軍の砲撃の合間を縫って壕の中から出て反撃する日本陸軍の兵士の姿が目に浮かびます。 壕の内部は破損が進み、落盤が起きる可能性があるので厳重な立入禁止になっています。 草むらの中を歩こうとしても、各所に「ハブに注意! 」の看板が掲げられているので、草むらの中に入るのも躊躇してしまいます。 この展望台に登ると、今、何かと話題の普天間基地を見ることが出来るので、有名になっている展望台です。 騒ぎの原因になっているオスプレイが、大きなローターで存在感を強く主張している感じです。 戦前には農地だった場所でしたが、戦争中は激戦地になり、戦後は多くの住民が基地周辺に住み、基地の周囲はすっかり市街地に囲まれています。 また基地の敷地を返還した基地に隣接した土地に大学や小学校が建てられ、アメリカ軍機の墜落や部品落下で騒がしている基地です。 嘉数台も、前田高地も日本軍はいい地形を選んで防衛拠点にしたと思います。 アメリカ軍もここを陥とさないでは先に進むことが出来ず、激戦地となりました。 嘉数台の戦いが始まってから10日目の4月19日はアメリカ軍の総攻撃があり、戦艦を始めとする艦船18隻、航空機約650機による攻撃は沖縄戦、どころか太平洋戦争を通じて最大の砲爆撃で使用された砲弾は、176万発にも及びました。 しかし嘉数台は陥落せず、逆に日本軍の反撃により戦車も60台あまり破壊されるほどの大損害を受けました。 台地の上には公園の展望台もありますが周辺には慰霊碑として「京都の塔」があり、京都府出身(福井県出身者も多かった)の兵士2,536名の犠牲者を慰霊しています。 また朝鮮半島出身の軍人、軍属386名を慰霊する「青丘之塔」も設けられています。 嘉数地区には住人700名がいましたが、うちこの半数が犠牲になられたとされています。 トーチカが一つ残されています。 トーチカはアメリカ軍が侵攻してくる正面方向を向いています。 今では、草木に覆われていてトーチカからの視界はまったく開けていませんが、当時はアメリカ軍が上陸した海岸や、沖に浮かぶ艦船も良く見える場所でした。 このトーチカに対して機関銃や戦車砲などの激しい攻撃が加えられてので、もともと四角だったトーチカの形は、銃撃、砲撃でかなり削られた形になっていて、戦闘の激しさが覗えます。 厚さ75㎝もあるコンクリート製のトーチカが鉄筋がむき出しになるほど激しい銃撃、砲撃を受けた跡が残っています。 後ろの出入口から、トーチカの中や銃眼からの見え方を見ることが出来ます。 もちろん当時は出入口は壕に繋がっていて、外には露出することなく、壕内から出入りすることが出来ました。 アメリカ軍の予想外の抵抗を示した日本軍は、最後には戦力を消耗し、4月24日になると日本軍の残存兵力は後方の第2線陣地の前田高地に、密かに撤退を開始しました。 アメリカ軍は2日で攻略する予定でしたが、激戦の中、多くの犠牲を払いながら結局16日間もかかって第1線陣地の嘉数台の占領しました。 この後は、第2線陣地の前田高地、そして首里の外郭陣地のシュガーローフの戦いに続いていきます。 戦跡としての嘉数台公園は、都市化してしまったシュガーローフの丘やハーフムーンの丘が戦跡としての痕跡がなくなってしまったのに比べると、嘉数台は戦跡として良く整備されていました。 戦跡と普天間基地を見渡すことが出来る嘉数台公園は、平和教育の場所として良く利用され続けるかと思います。 雨が降り始めましたが、後方の第2戦陣地跡の前田高地に向かいます。

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1945年4月26日 『前田高地の激闘始まる』

前田高地

2018年9月30日 Category: 浦添城跡は、沖縄戦における激戦地のひとつである。 その東側は前田高地と呼称され、昨年(2017年)公開されたハリウッド映画、「ハクソー・リッジ」の舞台となった。 映画には、住民の視点が欠けているという指摘もあったが、商業映画として成功させるには、シンプルなヒーローものとして展開する必要があったのだろう。 それよりボクが驚いたのは、驚くほどリアルな仮想空間を現出させている、映像技術である。 人と人が至近距離で殺しあう生々しさは想像を超え、誰もが目を覆いたくなる恐怖を味わうことだろう。 それは実写ではないかと錯覚するほどだ。 かつて戦争映画を見た父親は、「本当の戦争はこんなものではない」と漏らしていたが、最新の映像は、ホンモノ以上にホンモノらしく戦争を見せているのかもしれない。 問題がない分けではないだろう。 が、戦争体験者がやがていなくなる時が迫る今、フィクションを超えたリアルな映像表現が、戦争の実相を継承する有効なツールになるかもしれない。 そこには恐怖や嫌悪が満ち満ちていて、耐え難い苦痛を伴うのかもしれないが、それは致し方ないだろう。 なぜならそれが戦争なのだから。 浦添市当山の住宅地から見た前田高地一帯の風景 このハクソー(金ノコ)・リッジでは、1945年4月30日の夜、米軍が長さ15mのハシゴ4つと貨物網5つをかけてよじ登った、とアメリカ陸軍省戦史局『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』(喜名建勇訳)にあるが、崖をよじ登った全兵士は、翌日、日本軍の攻撃ですべて駆逐される。 以後、日米の兵士による壮絶な肉弾戦がこの高地で繰り広げられ、崖を登る米兵に加え、南側に回った米軍戦車や火炎放射攻撃に対し、外間氏をふくむ日本軍は、洞窟陣地に立てこもりながら必死で応戦するが、圧倒的な米軍の力にねじ伏せられていく。 あらゆる弾を撃ち尽くしたあとは、手榴弾や石を投げ、体がバラバラになった戦友の死体が壕内には積み重なった、と外間氏は書いている。

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ハクソーリッジの丘(浦添城跡)を訪ねた

前田高地

昨日、映画『ハクソーリッジ』を観に行きました。 皆、怖い怖いというので、相当の覚悟をして観たのですが、 怖いというより、私は清々しささえ感じて映画館を後にしました。 最前線で米兵を初めて見た元日本兵に話を聞くと、 多くの人が「まるで赤鬼のようだった」と言います。 彫りの深い赤ら顔が印象に残るようです。 一方、米兵が見た日本兵ってどうだったんだろう、 黄色い猿かなあと漠然と思っていましたが、 『ハクソーリッジ』で米兵の視点から見ると、 まるで無表情のカカシ。 帽タレが激しく揺れ動く姿が印象的で、 しかも神出鬼没だから本当に怖いのです。 戦争神経症(ノイローゼ)になって後退する米兵は 多かったようですが、さもありなん・・・。 おそらく私もすぐに後送されるだろう。 また最前線のグロテスクな惨状も、確かに観るには それなりの覚悟が必要かもしれません。 なのに、この清々しさはなんだろう? あまり詳しく書くとネタバレしてしまうのでやめますが、 「私」ではなく「個」の物語だったからではないかな、と 思っています。 軍隊の中で「個」を貫くことは難しい。 でも彼はそれを貫いた(誰にでもできることではない)。 軍も国家も、最終的にはそれを認め、それを称えた。 ここがアメリカのすごいところ。 「私」と「個」が一緒くたになって 出る杭はとにかく打たれてしまう日本とは違う。 おそらく日本では、初年兵がどれほど「個」を貫いたとしても、 軍法会議で禁錮刑になって物語は終わってしまうのではないか。 (それほどの「個」が育つ土壌が日本にあるかどうかは別ですが) さて、ここでプチ軍事トリビア。 このハクソーリッジ、沖縄の前田高地を指しているそうです。 前田高地の日本軍を調べてみると、 第 62師団の独立歩兵第 12大隊(賀谷支隊)や 増援に来た第 24師団歩兵第 32連隊第2大隊(志村大隊)が 奮戦しています。 「猛烈な砲劇と南麓からの戦車砲の直撃を壕に浴び、 高地頂上付近は北面断崖を縄梯子で上がってきた アメリカ兵に占領され、上から自動小銃を乱射され 無数の手榴弾を投擲された。 山腹の陣地に籠る第2大隊に できるのは手榴弾での対抗と突撃だけであった。 (中略)5月初め頃には志村第2大隊の兵力はほぼ全滅、 負傷者を入れても 200人ほどになっていた。 (中略) 第2大隊のほとんどの兵は、この5日間一度も寝ないで 戦ったあげく戦死していった」 (『定本 沖縄戦』より) いま、前田高地には慰霊碑が建立されています。 数年前に訪れました。 高地頂上からは、普天間飛行場が見えます。 右側です。 左手のこんもりした森は、嘉数高地(こちらも激戦地) グーグルマップではこの付近が 「 Desmond Doss Point」として表示されていました。 映画が公開されたからでしょうか。 もっと前からそういう表示だったのかは不明です。 さて、本チャン「軍トリ」は、 当時の敵性語僕別キャンペーンについて ご紹介しています。 こちらもぜひご覧ください。 笹幸恵 昭和49年、神奈川県生まれ。 ジャーナリスト。 大妻女子大学短期大学部卒業後、出版社の編集記者を経て、平成13年にフリーとなる。 国内外の戦争遺跡巡りや、戦場となった地への慰霊巡拝などを続け、大東亜戦争をテーマにした記事や書籍を発表。 現在は、戦友会である「全国ソロモン会」常任理事を務める。 戦争経験者の講演会を中心とする近現代史研究会(PandA会)主宰。 大妻女子大学非常勤講師。 國學院大學大学院在学中。 著書に『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋)、『「白紙召集」で散る-軍属たちのガダルカナル戦記』(新潮社)、『「日本男児」という生き方』(草思社)、『沖縄戦 二十四歳の大隊長』(学研パブリッシング)など。

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