産屋敷加賀屋 死亡。 おしんとは

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産屋敷加賀屋 死亡

の最高管理者である産屋敷の一族の97代目当主・の5人いる子供の一人。 子どもの中では唯一の黒髪で、かつ 男の子である。 つまり、の跡継ぎ。 では名前が出ておらず、『童子』とされていた(舞台版では『黒髪』)。 彼を含め、きょうだい揃って母であるに顔がよく似ている。 初登場はが参加したの案内役だった。 その際に顔がよく似た彼の姉妹と一緒にいたため、双子の姉妹のように思われたが、コミック収録時に「どちらかが男の子」と記述されていた。 また、柱合会議が収録された6巻では、最終選別の案内役として現れていない姉妹がさらに二人登場。 同巻では実は5人きょうだいであること、及び女装しているのは、 産屋敷の男子は病弱なため13歳までは女子として育てるからという理由が明かされた(実際厄除けで男子を女子として育てる風習はある)。 最終選別以降は、とを倒した際に、望外の喜びの顔を見せる父・耀哉が、その後血を吐くように咳きこんだコマで、「父上!! 」と心配して駆け寄る様子が描かれるのみで、本編に登場することはしばらくなかったが…。 以下、ネタバレ注意 『無限城決戦編』にて 単行本16巻にて、父・輝哉と母・あまね、姉妹のうち姉の・が、と対峙し死亡した。 この後に98代目の当主となったと同時に、年齢が 8歳であることが判明している(また、コミック17巻にて彼らきょうだいは 五つ子であることが明かされた)。 当主となったため、男子の正装に変わっている。 炭治郎及び達がに捕捉され、無限城に取り込まれたため、共に生き残った妹の・と共に戦局を見通すため、協力者であるの術である『目』を使って、城内の製図化、および指揮をしている。 その際の見事な采配、鬼殺隊士を先代のように名前で呼び捨てしていることから、既に当主としての自覚が現れている。 両親からは(短命であるが故に)人よりも早く大人となるべく厳しい教育を受けていたが、同時に愛情をもって育てられとても慕っていたことが作中で語られた。 しかし無惨が繭の状態から回復し、その場にいた隊士達が皆殺しにされた際は動揺して指示を出せなくなるなど、まだ当主としての精神面は未熟である一面が描かれている。 また、が炭治郎の危機を察し飛び出した直後に「 禰豆子は好きにさせなさい 大丈夫だから」という父の声を聞いた時は、父を思い涙を流していた。 204話では最後の柱合会議にて、柱の中で生き残ったとに向けて妹達と共に心からの感謝の言葉を贈ったところ、2人から「 礼など必要御座いません」「 輝利哉様が立派に務めを果たされたこと 御父上含め産屋敷家御先祖の皆様も 誇りに思っておられることでしょう」と返され、大粒の涙を流していた。 最終回では無惨が死んだ事で呪いから解放され、人並みの寿命を得たどころか 現代まで長く生き続けており、日本最高齢を記録しテレビで報道されている。 名字しか出ていないが、恐らく本人の可能性が高い。 本編の舞台は最終選別での炭治郎とのやり取りから3年~大正7年(1914年~1917年)とされ、本話における現代が2年(2020年)とすると、現在の彼の年齢は 111歳~114歳ということになる。 関連イラスト.

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産屋敷耀哉 (うぶやしきかがや)とは【ピクシブ百科事典】

産屋敷加賀屋 死亡

石川千代松 一八八七年の春英国で科学の学会があった。 此 ( この )時ワイスマン先生も 夫 ( そ )れへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。 」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。 其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。 であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。 ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。 先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。 夫れで先生は火星の本を書かれた。 処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。 私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。 此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。 自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。 或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。 すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。 処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大 喝采 ( かっさい )を博した。 で帰って見たら斯んな物が来て居たと。 先生は夫れ 計 ( ばか )りでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。 殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、 此方 ( こちら )は自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー 之 ( こ )れからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。 先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜 抔 ( など )には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。 先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。 今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。 夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。 斯様 ( かよう )に先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。 コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた 腕足 ( わんそく )類を日本で又調べ度いと思ったからである。 で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を 招聘 ( しょうへい )したいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。 此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。 生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。 で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。 先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。 此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。 之 ( こ )れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。 ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。 処が 茲 ( ここ )に面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。 処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。 多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。 夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。 処が当時本邦の学校に 傭 ( やと )われて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。 であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。 併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。 例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う 抔 ( など )云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。 併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。 此大森の貝塚に関して 一寸 ( ちょっと )云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。 此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。 又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。 夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の 嚆矢 ( こうし )でもある。 東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。 (先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後 其処 ( そこ )に記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。 大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。 何んと悦ばしい事であるまいか。 ) 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。 何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の 炯眼 ( けいがん )で観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。 夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本 贔屓 ( びいき )であって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。 例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようは 斯 ( こ )う云うたものであった。 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された 噺 ( はなし )も時々聞いた。 其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。 先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は 遽 ( あわただ )しく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。 無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。 之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい間に又は無論斯様な事も沢山あったろう。 併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。 其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。 併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。 であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。 其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。 であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。 誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。 であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。 処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ 佩用 ( はいよう )すべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。 尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。 私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。 之れに付き面白い噺がある。 フィラデルフィアのウィスター・インスチチュートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチュートへ寄贈せようと云われた。 其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。 処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。 此文章の終りの when I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。 斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文は夫れで又有名であった。 であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。 コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。 或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。 此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。 併し先生にも嫌いな事があった。 其一つは家蠅で、他の一つは音だ。 此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレー博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。 モースがシンシナチイで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。 どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。 困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。 二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。 先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガッシイの動物学の講義の中で腕足類に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。 前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。 其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。 先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。 で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。 之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。 夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。 先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。 コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。 「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。 」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。 斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。 先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。 セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。 先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。 夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。 急報でコンコードに居る御嬢さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。 であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。 斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。 夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。 先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチュートの解剖学陳列室に収めてある。 私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。 之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。 併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。 先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。 であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。 私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。 夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。 [#改丁] 一 先ず第一に現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。 時間が不規則になりやすい職業に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。 もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費す時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。 誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。 御叱正を乞います。 二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。 まことに穏雅な、親切な、而もエフィシェントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。 三 Morse に最も近い仮名はモースであります。 私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。 四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。 また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。 五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。 〔 〕は註釈用の括弧です。 六 絵は大体に於て原図より小さくなっています。 従って実物大とか、二分の一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。 七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。 八 下巻の巻尾にある索引、各頁の上の余白にある内容指示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。 九 先輩、友人に色々と教示を受けました。 芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。 一〇 原著は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。 先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。 この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。 私は先生自らが 私が最初日本を訪れた目的は単に日本の近海に産する腕足類の各種を研究するだけであった。 それで、江ノ島に設けた小さな実験所で仕事をしている内に、私は文部省から東京の帝国大学で動物学の講座を受持つ可く招聘された。 殆ど四年日本にいた間、私は国へ送る手紙の重複を避ける為に、毎日日記をつけた。 私の滞在の一期限は、後になって発表してもよいと思われた題目に関する記録が出来上らぬ内に、終って了った。 が、これは特殊な性質を持っていたのである。 即ち住宅及びそれに関係した諸事物の覚え書きや写生図だった。 この理由で、本書には、この前著に出ている写生図の少数を再び使用した以外、家庭住宅等に関する記述は極めて僅かしか出て来ない。 また私は私が特に興味を持っている問題以外に就ては、記録しようとも、資料を蒐集しようとも努めなかった。 また地理にも興味を持っていないので、横切った川の名前も通過した地域の名も 碌 ( ろく )に覚えなかった。 マレー、サトウ等が著した優秀な案内書や、近くは、ホートン・ミフリン会社が出版したテリーの面白い案内書のおかげで、私は私が旅行した 都邑 ( とゆう )に 於 ( おけ )る無数の興味ある事物に言及さえもしないで済んだ。 これ等の案内書には、このような事柄が実に詳しく書いてあるからである。 私が何等かの、時には実に些細なことの、覚え書きか写生かをしなかった日とては一日もない。 私は観察と同時に興味ある事物を記録することの重大さを知っていた。 そうでないとすぐ陳腐になって了って、目につかぬ。 ブリス・ペリー教授は彼の尊敬すべき著述『パーク・ストリート・ペーパース』の中で、ホーソンがまさに大西洋を渡らんとしつつある友人ホレーシオ・ブリッジに与えた手紙を引用している。 曰く「常に、君の心から新奇さの印象が消えぬ内に書き始めよ。 そうでないと、最初に君の注意を引いた特異な事物も、記録するに足らぬ物であるかのように思われやすい。 而もこのような小さな特異な事柄こそ、読者に最も生々とした印象を与える、大切なものなのである。 最少限度に於てでも特質を持っている物ならば、何物をも、記録すべくあまりに軽少だと思う勿れ。 君はあとから君自身の旅行記を読んで、このような小さな特異性が如何に重大な、そして描写的な力を持っているかに驚くであろう。 」 本書にして 若 ( も )し価値ありとすれば、それはこれ等の記録がなされた時の日本は、数世紀に亘る奇妙な文明から目ざめてから、数ヶ年を経たばかりだという事実に立脚する。 その時(一八七七年)にあってすら、既に、軍隊の現代的調練、公立学校の広汎な制度、陸軍、財政、農業、電信、郵便、統計等の政府の各省、及び他の現代的行政の各官署といったような変化は起っていて、東京、大阪等の大都会には、これ等新制の影響が僅かに見られた。 それは僅かではあったが、而もたった数年前、武士がすべて両刀を帯び、男子がすべて 丁髷 ( ちょんまげ )に結い、既婚婦人がすべて歯を黒くしている頃の、この国民を見た人を羨ましく思わせる程、はっきりしていた。 だがこれ等外国からの新輸入物は田舎の都会や村落を、よしんば影響したにせよ極く僅かしか影響しなかった。 私の備忘録や写生図の大部分は田舎に於てなされた。 私が旅行した地域の範囲は、北緯四十一度に近い 蝦夷 ( えぞ )の西岸オタルナイから三十一度の薩摩の南端に至るといえば大略の見当はつくであろう。 これを私は主として陸路、人力車 並 ( ならび )に馬によった。 私の記録や写生図の大部分は一千年前につくられた記録と同じであろう。 事実、この国は『土佐日記』(エーストン訳)の抄本が、私が毎日書いていた所のものによく似た光景や状態を描いている程、変化していなかったのである。 日記帳三千五百頁を占めるこの材料を、どういう方法で世に表わそうかということは、長年考えはしたが、はっきりした考えがつかなかった。 まったく、友人ドクタア・ウィリアム・スターギス・ビゲロウ(私は同氏と一緒に三度目の日本訪問をなした)からの手紙がなかったら、この日記は出版のために準備されなかったことであろう。 私は大得意でビゲロウ氏に手紙を出し、軟体動物並に腕足類に関するいくたの研究を片づけるために、セーラムのピーボディ博物館及びボストンの美術館から長い休暇を貰ったことを知らせた。 外でもない、より高尚な、君ほどそれに就て語る資格を持っている人は他にない事の態度や習慣に就て時を費さず、誰でも出来るような下等動物の研究に、君がいまだに大切な時を徒費しているという白状だ。 どうだ、君は正直な所、日本人の方が虫よりも高等な有機体だと思わないか。 腕足類なんぞは溝へでも棄てて了え。 腕足類は棄てて置いても大丈夫だ、いずれ誰かが世話をするにきまっている。 君と僕とが四十年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。 この後十年間に我々がかつて知った日本人はみんなベレムナイツ〔今は化石としてのみ残っている頭足類の一種〕のように、いなくなって了うぞ。 」 彼の論点は圧倒的で私に弁解の余地を与えなかった。 私は渋々出版を目的として材料の整理を始めた。 最初私は備忘録を、私が一八八一年から翌年にかかる冬、ボストンのローウェル・インスティテュートでなした日本に関する十二講の表題によって分類することに腹をきめた。 その表題というのは次の通りである。 かかる主題のあるものは、すでに他の人々の手で、専門的論文の性質を持つ程度に豊富な 絵によって取扱われている。 それに、私の資料をローウェル・インスティテュートの講義の順に分類することは大変な大仕事で、おまけに多くの新しい副表題を必要とする。 やむを得ず、私は旅行の覚え書きを一篇の継続的記録として発表することにした。 材料の多くは、この日記がちょいちょい描写する、街頭をぶらつく群衆のように、呑気でまとまっていない。 然し今日稀に見る、又は全く跡を絶った多くの事柄を描いている。 この日記中の重要な問題はすでに他で発表した。 『ユースス・コムパニオン』に「日本の 紙鳶 ( たこ )あげ」( 画付)。 『ハーパース・マンスリー』には「古い薩摩」と題する記事に四十九の物品を十一枚の木版画で説明して出した。 また『日本の家庭とその周囲』と称する本には説明図が三百七図入っている。 東京帝国大学発行の『大森の貝塚』には石版図のたたんだもの十八枚に説明図二百六十七図が納めてある。 日本の陶器に関する記録はフォトグラヴィア版六十八枚、及び記事中に一千五百四十五個の製造家の刻印を入れた、三百六十四頁の四折判の本となって、ボストン美術館から発行された。 また私を最初日本に導いた腕足類の研究の結果はボストン博物学会から出版された。 これは八十六頁の四折判で石版図が二十三枚入っている。 ボストン美術館のジェー・イー・ロッジ氏は、私に本書に出て来る日本の物件のすべてに、その名を表す支那文字をつけることを勧告された。 然しそれは、原稿を印刷のため準備するに当って、非常に労力を要するのみならず、漢字に興味を持つ少数の読者は、それ等に相当する漢字が見出さるであろう所のヘップバーンの日英辞典を、持っているなり、あるいは容易に手にすることが出来るであろうことを思って、私は遺憾ながらこの優れた申し出に従うことをやめた。 序 ( ついで )にいうが、我国では漢字のよき一揃えを手に入れることは至難事であろう。 かかる活字はライデン市のブリルにでも注文せねばあるまい。 同様な理由でOを長く読ませる をも除外した。 この日記の叙述には大ざっぱなものが多い。 一例として日本人が正直であることを述べてあるが、私はかかる一般的な記述によって、日本に 盗棒 ( どろぼう )がまるでいないというのではない。 巡査がいたり、牢屋や監獄があるという事実は、法律を破る者がいることを示している。 諺 ( ことわざ )のようになっている古道具屋の不正直に関しては、三千世界のいずこに正直な古道具屋ありやというばかりである。 私が日本人はスウェア(神名を妄用)しないということを書いたその記述は、日本人がスウェア語を持っていないという事実に立脚している。 日本にだって神様も聖人も沢山いる。 だがそれ等の名前は、例えばスペインで聖ペドロ、聖ユアンその他の聖徒の名前が、忌まわしい語句と結びつけられるような具合に、祈りに使用されたり、又は罵られたりしないのである。 必ず見出されるであろう所の多くの 誤謬 ( ごびゅう )に就ては、私としては只当時最も権威ある典拠によったということをいい得る丈で、以下の記録をなした後の四十年間に、いろいろと新しい説明が加えられ得るものもあるらしい。 一例として富田氏は、私に富士山のフジは、噴火山を意味するアイヌ語だとの手紙を呉れた。 私が日本で交をむすび、そして世話になった初期の友人に女子師範学校長のドクタア高嶺秀夫及び彼の友人宮岡恒次郎、竹中成憲両氏がある。 宮岡氏はその後有名な弁護士になった。 彼はそれ迄外交官をしていて、ベルリン及びワシントン大使館の参事官であった。 九歳の彼は同年の私の男の子の遊び友達だった。 彼はよく私の家へ遊びに来たもので、彼と彼の兄を通して私は諺、迷信、遊戯、習慣等に関する無数の知識を得た。 なお実験室で親しく交際した私の特別な学生諸君にも感謝の意を表する。 帝国大学の綜理ドクタア加藤、副綜理ドクタア浜尾、ドクタア服部、学習院長立花伯爵その他『日本の家庭』の序文に芳名を録した多くの日本人の学生、友人、茶ノ湯、音曲の先生等にも私は負うところが多い。 屡々 ( しばしば )、質問のあるものがあまりに愚なので、笑いに窒息しかけながらも、彼等が私に与えてくれた、辛棒強くも礼義に富んだ返事は、私をして従来かつて記されなかった習慣の多くを記録することを得させた。 私の対話者のある者は、英語を僅かしか知らなかった。 加 レ之 ( しかのみならず )私の日本語が同様に貧弱だったので、その結果最初は随分間違ったことを書いた。 意見を異にするのは礼義でないということになっているので、質問者自身があることがらを了解したと考えると、話し相手も従順に同意するのである! いろいろな点で助力を与えられた美術館の富田幸二郎氏及び平野ちゑ嬢に私は感謝する。 また一緒に日本に行った私の娘ラッセル・ロッブ夫人は、私が記録しておかなかった多くの事件や経験を注意してくれた点で、ラッセル・ロッブ氏はタイプライタアで打った原稿の全部を批評的に読み、余計なところを削除し、句章を短くし、各方面にわたって粗雑なところを平滑にしてくれた点で、私は負う所が多い。 最後に、 呪詛 ( じゅそ )の価充分なる私の手記を読んでタイプライタアで打ち、同時に 粗 ( そぞう )なるを流暢に、 曖昧 ( あいまい )なるを平易にし、且つ絶間なく私を 鞭撻 ( べんたつ )してこの仕事を仕上げさせてくれたマアガレット・ダブリュー・ブルックス嬢に対して、私は限りなき感謝の念を感じる。 サンフランシスコからの航海中のこまかいことや、十七日の航海を済ませて上陸した時のよろこびやは全部省略して、この日記は日本人を最初に見た時から書き始めよう。 我々が横浜に投錨した時は、もう暗かった。 ホテルに所属する日本風の小舟が我々の乗船に横づけにされ、これに乗客中の数名が乗り移った。 我々を海岸まではこぶ二マイルを彼等は物凄い程の元気で 漕 ( こ )いだ。 そして、彼らは実に不思議な呻り声を立てた。 お互に調子をそろえて、ヘイ ヘイチャ、ヘイヘイ チャというような音をさせ、時にこの船唄( 若 ( も )しこれが船唄であるのならば)を変化させる。 彼等は、船を漕ぐのと同じ程度の力を籠めて呻る。 彼等が発する雑音は、こみ入った、 ぜいぜいいう、汽機の排出に似ていた。 私は彼等が櫓の一と押しごとに費す烈しい気力に心から同情した。 而 ( しか )も彼等は二マイルを一度も休まず漕ぎ続けたのである。 この小舟には側面から漕ぐ為の、面白い設備がしてあった。 図は船ばたにしっかりと置かれ、かつ数インチつき出した横木を示している(図1)。 櫓にある 瘤 ( こぶ )が、この横木の端の穴にぴったりはまる。 櫓(図2)は固く縛りつけられた二つの部分から成り、重く、そして見た所如何にも取扱いにくそうである。 舟の一方で一人が漕ぎ、反対の側で二人が漕ぐ、その二人の中の一人は同時に舵をとるのであった。 我々が岸に近づくと、舟子の一人が「人力車」「人力車」と呼んだ。 すぐに誰かが海岸からこれに応じた。 これは人の力によって引かれる二輪車を呼んだのである。 税関の役人たちが我々の荷物を調べるために、落着き払ってやって来た。 純白の制帽の下に黒い頭髪が奇妙に見える、小さな日本の人達である。 我々は海岸に沿うた道を、暗黒の中へ元気よく進んだ。 我々の着きようが遅かったので、ホテルはいささか混雑し、日本人の雇人達が我々の部屋を準備するために右往左往した。 やがて床についた我々は、境遇の新奇さと、早く朝の光を見度いという熱心さとの為に、 恰度 ( ちょうど )独立記念日の朝の愉快さを期待する男の子たちみたいに、殆ど睡ることが出来なかった。 私の三十九回の誕生日である。 ホテルの窓から港内に集った各国の軍艦や、この国特有の奇妙な小舟や、 戎克 ( ジャンク )や、その他海と舟とを除いては、すべてが新しく珍しい景色を眺めた時、何という歓喜の世界が突然私の前に展開されたことであろう。 我々の一角には、田舎から流れて来る運河があり、この狭い水路を実に面白い形をした小舟が往来する。 舟夫たちは一生懸命に働きながら、奇妙な船唄を歌う。 道を行く人々は極めて僅か着物を着ている。 各種の品物を持っている者もある。 たいていの人は、粗末な木製のはき物をはいているが、これがまた固い道路の上で不思議な、よく響く音を立てる。 このはき物には長方形の木片に細い二枚の木片を横に取りつけた物と、木の塊から彫った物と二種類があった。 第3図は人品いやしからぬ老婦人の足を写生したものであるが、このように太い紐がついていて、その前方が 拇指 ( おやゆび )とその次の指との間に入るように工夫されている。 下駄や草履には色々な種類がある。 階段のあたりに置かれる麦 藁 ( わら )でつくった小奇麗なのもあれば、また非常に粗末な藁製の、一足一セントもしないようなのもある。 これ等は最も貧乏な人達がはくので、時々使い古しが道路に棄ててあるのを見る。 不思議な人間の 杙 ( くい )打機械があり、何時間見ても興味がつきない。 足場は藁繩でくくりつけてある。 働いている人達は殆ど裸体に近く、殊に一人の男は、犢鼻褌以外に何も身につけていない。 杙打機械は面白く出来ていた。 第4図はそれを示しているが、重い 錘 ( おもり )が長い竿に取りつけてあって、足場の横板に坐る男がこの竿を 塩梅 ( あんばい )し、他の人々は下の錘に結びつけられ、上方の滑車を通っている所の繩を引っ張るのである。 この繩を引く人は八人で円陣をなしていたが、私の写生図は簡明にする為四人にしておいた。 変な、単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って繩を引き、そこで突然繩をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて墜ちる。 すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まこと 莫迦 ( ばか )らしい時間の浪費のように思われた。 時間の十分の九は唄歌に費されるのであった。 日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。 我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。 ホテルの角には、人力車が数台並んで客を待っていた(図5)が、我々が出て行くや否や、彼等は「人力車?」と叫んだ。 我々は明瞭に要らぬことを表示したが、それにも拘らず二人我々について来た。 我々が立ち止ると彼等も立ち止る。 我々が小さな店をのぞき込んで、何をか見て微笑すると、彼等もまた微笑するのであった。 私は彼等がこんなに遠くまでついて来る忍耐力に驚いた。 何故かなれば我々は歩く方がよかったから人力車を雇おうと思わなかったのである。 然し彼等は我々よりも、やがて何が起るかをよく知っていた。 歩き廻っている内に 草疲 ( くたび )れて了うばかりでなく、路に迷いもするということである。 果してこの通りのことが起った。 一歩ごとに出喰わした、新しいこと珍しいことによって完全に疲労し、路に迷い、長く歩いて疲れ切った我々は、よろこんで人力車に乗って帰る意志を示した。 如何にも弱そうに見える車に足をかけた時、私は人に引かれるということに一種の屈辱を感じた。 若し私が車を下りて、はだしの男と位置を代えることが出来たら、これ程面喰わずに済んだろうと思われた。 だが、この感はすぐに消え去った。 そして自分のために一人の男がホテル迄の道のりを一と休みもしないで、自分の前を素敵な勢で馳けているということを知った時の陽気さは、この朝の経験の多くと同様に驚く可きことであった。 ホテルへ着いた時彼等は十セントとった。 この為に彼等は朝半日を全くつぶしたのである! かかる人々の驚く可き持久力は、まさに信用出来ぬ程である。 彼等はこのようにして何マイルも何マイルも走り、而も疲れたらしい容子もしないということである(図6)。 乗客をはこぶに際して、彼等は決して歩かず、長い、ゆすぶる様な歩調で走るのである。 脛 ( すね )も足もむき出しで、如何に太陽が熱くても、たいていは無帽である。 時として頭に布切れを くるりとまきつけ、薄い木綿でつくった藍色の短い上衣を着、腰のまわりに下帯を結ぶ。 冬になってもこれ以上あたたかい服装をしないらしい。 涼しいには違いなかろうが、我々の目には変に見える。 我々はその絵を誇張したものと思ったものである。 人力車に乗ることは絶間なき愉快である。 身に感じるのは静かな上下動だけである。 速度は中々大きい。 馬の代りをなすものは決して狂奔しない。 止っている時には、彼は荷物の番をする。 私が最初に長い間のった人力車の車夫はこんな風に(図7)見えた。 頭のてっぺんは剃ってあり、油を塗った小さな 丁髷 ( ちょんまげ )が毛の無い場所のまん中にくっついていた。 頭の周囲には白い布が捲きつけてあった。 店と、それからその後にある部屋とは、道路に向って明けっぱなしになっているので、買物をしに行く人は、自分が商品の間から無作法にも、その家族が食事をしているのを見たり、簡単なことこれに比すべくもない程度にまで引き下げられた家事をやっているのを見たりしていることに気がつく。 たいていの家には炭火を埋めた灰の入っている器具がある。 この上では茶のための湯が熱くされ、寒い時には手をあたためるのだが、最も重要な役目は喫煙家に便利を与えることにあるらしい。 パイプと吸い口とは金属で、柄は芦みたいな物である(図8)。 煙草は色が薄く、こまかく刻んであり、非常に乾いていて且つ非常にやわらかい。 雁首には小さな豆粒位の煙草のたまが納る。 これを詰め、さて例の炭で火を点けると、一度か二度パッと吸った丈で全部灰になって了う。 このような一服でも充分なことがあるが、続けて吸うために五、六度詰めかえることも出来る。 またお茶はいつでもいれることが出来るような具合になっていて、お茶を一杯出すということが一般に、店に来た人をもてなすしるしになっている。 かかる小さな店のありさまを描写することは不可能である。 ある点でこれ等の店は、床が地面から持ち上った、あけっぱなしの仮小屋を連想させる。 お客様はこの床の端に腰をかけるのである。 この後で家族が一室に集り、食事をしたり物を読んだり寝たりしているのであるが、若しこの店が自家製品を売るのであると、その部屋は扇子なり菓子なり砂糖菓子なり玩具なり、その他何であろうと、商品の製造場として使用される。 子供が多勢集って ままごとをやっているのを見ているような気がする。 時に 箪笥 ( たんす )がある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当らぬ。 煙筒 ( えんとつ )もなし、ストーヴ [#「ストーヴ」は底本では「ストーブ」]もなし、屋根部屋もなし、地下室もなし、 扉 ( ドア )もなく、只 すべる 衝立 ( ついたて )がある丈である。 家族は床の上に寝る。 だが床には六フィートに三フィートの、きまった長さの 筵 ( むしろ )が、 恰 ( あたか )も子供の積木が箱にピッタリ入っているような具合に敷きつめてある。 枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分入った夜具を上からかける。 例えば往来のまん中を誰れはばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。 また、続けさまにお 辞儀 ( じぎ )をする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。 一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。 多くの町村では、道路に添うて井戸がある。 この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛棒強く横に立っていた。 我々は勿論彼等がこの婦人のために一バケツ水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それ所か礼の一言さえも云わなかった。 前に出した写生図でも判る通り、 足袋 ( たび )は、拇指が他の四本の指と離れた 手套 ( てぶくろ )に似ているので、下駄なり草履なりを脱ぐのが、実に容易に行われる。 あたり前の家の断面図を第9図で示す。 店なり住宅なりの後方にある土地は、如何に狭くても、何かの形の庭に使用されるのである。 彼等は力を入れる時、短い音を連続的に発するが、調子が高いので可成り遠くの方まで聞える。 繰り返して云うことはホイダ ホイ! ホイ サカ ホイ! と聞える。 顔を流れる汗の玉や、口からたれる 涎 ( よだれ )は、彼等が如何に労苦しているかの証拠である。 またベットー即ち 走丁 ( フットマン )(めったに馬に乗ることをゆるされぬ彼は、文字通りの走丁である。 )の仕事は、人が多勢歩いている往来を、馬車に先立って走り、路をあけることである。 かくの如くにして人間が馬と同じ速さで走り、これを何マイルも何マイルも継続する。 かかるベットーは黒い衣服に、丸くて黒い鉢のような形のものをかぶり、長い袖をぺらぺらと後にひるがえす。 見る者は黒い悪魔を連想する。 これは田をつくることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費されるかを物語っている。 田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。 地区のあるものには地面を耕す人があり(図 11)他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行われつつある。 草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが而も一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。 小さい子供達は赤坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。 この、子供を背負うということは、至る処で見られる。 婦人が五人いれば四人まで、子供が六人いれば五人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。 時としては、背負う者が両手を後に廻して赤坊を支え、又ある時には赤坊が両足を前につき出して馬に乗るような格好をしている。 赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して 疳癪 ( かんしゃく )を起しているのを一度も見ていない。 私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。 かつて一人のお母さんが鋭い 剃刀 ( かみそり )で赤坊の頭を剃っていたのを見たことがある。 赤坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。 私はこの行為を我国のある種の長屋区域で見られる所のものと、何度も何度もくりかえして対照した。 同時にまるで似ていないのもある。 棕櫚 ( しゅろ )、竹、その他明らかに亜熱帯性のものもある。 小さな谷間の奥ではフランスの陸戦兵の一隊が、意気な帽子に派手な藍色に白の飾をつけた制服を着て、つるべ撃ちに射撃の練習をしていた。 私は生れて初めて茶の栽培を見た。 どこを見ても興味のある新しい物象が私の目に入った。 東京は人口百万に近い都会である。 古い名前を江戸といったので、以前からそこにいる外国人達はいまだに江戸と呼んでいる。 我々を東京へ運んで行った列車は、一等、二等、三等から成り立っていたが、我々は二等が充分清潔で且つ楽であることを発見した。 車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。 連結機と車台とバンター・ビームは英国風、車室の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が車と直角に着いている所は米国の鉄道馬車みたいなのである。 我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。 鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがる稲の田は、今や(六月)水に被われていて、そこに働く人達は膝のあたり迄泥に入っている。 淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。 百姓家は恐ろしく大きな草 葺 ( ぶ )きの屋根を持っていて、その脊梁には 鳶尾 ( とんび )に似た葉の植物が生えている。 時々我々はお寺か社を見た。 いずれもあたりに木をめぐらした、気持のいい、絵のような場所に建ててある。 これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、十七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終って了った。 我々は東京に着いた。 汽車が停ると人々はセメントの道に下りた。 横浜が興味深かったとすれば、この大都会の狭い路や生活の有様は、更に更に興味が深い。 私の頭はいろいろな光景や新奇さで、いい加減ごちゃごちゃになった。 かなり広い焼跡を通過した時、私は今までこんなに人が働くのを見たことがないと思った位、盛な活動が行われつつあった。 そこには、小さな、一階建ての住宅や、吹けば飛ぶような店舗と、それから背の高い、堂々たる二階建ての防火建築との、二つの形式の建物が建てられつつあった。 大きな防火建築をつくるに当っては、先ず足場を組み立て、次にむしろで被覆するのであるが、これはふんだんに使用する壁土が、早く乾き過ぎぬ為にするのである。 かかる建物には、重い瓦の屋根が使用される。 これは地震の際大いに安全だとされている。 即ち屋根の 惰性は、よしんば建物は揺れても、屋根は動かぬようになっているのである。 一本の杖を指一本の上に立てようとすると困難である。 だが、若し重い本を、この杖の上に結びつけることが出来れば、それを支えることは容易になるし、本をすこしも動かすことなしに、手を素速く数インチ前後に動かすことも出来る。 〔蔵を建てるには〕先ず丈夫な骨組みが出来、その 梁 ( はり )の間に籠細工のように竹が編み込まれ、この網の両側から壁土が塗られる。 建物が先ず板張りされる場合には、四角い瓦が、時としては筋違いに、時としては水平に置かれ、その後合せ目を白い壁土で塗りつぶすのであるが、これが中々手際よく、美しく見えるものである(図 12)。 商売人たちは毎年一定の金額を建築費として貯金する習慣を持っている。 これは、どうかすると広い区域を全滅させる大火を予想してのことなのであるが、我々が通りつつあった区域は、長い間、このような災難にあわなかったので、こうして貯えた金がかなりな額に達した結果、他に比較して余程上等な建物を建てることが出来た。 優雅な傾斜を持つ高さ二十フィート、あるいはそれ以上の石垣に接するこの堀は、小さな川のように見えた。 石垣は広い区域を取りかこんでいる。 堀の水は十五マイルも遠くから来ているが、全工事の堅牢さと規模の大きさとは、大したものである。 我々はテーブルと椅子若干とが置かれた低い建物に入って行って、文部省の督学官、ドクタア・デーヴィッド・マレーの来るのを待った。 テーブルの上には、煙草を吸う人の為の、火を入れた土器が箱に入っている物が置いてあった。 間もなく召使いがお盆にお茶碗数個をのせて持って来たが、部屋を入る時、頭が床にさわる位深くお辞儀をした。 大学の外人教授は西洋風の家に住んでいる。 これ等の家の多くは所々に出入口のある、高い塀にかこまれた広い構えの中に建っている。 出入口のある物は締めたっきりであり、他の物は夜になると必ず締められる。 東京市中には、このような場所があちこちにあり、ヤシキと呼ばれている。 封建時代には殿様たち、即ち各地の大名たちが、一年の中の数ヶ月を、江戸に住むことを強請された。 で、殿様たちは、時として数千に達する程の家来や工匠や召使いを連れてやって来たものである。 我々が行きつつある屋敷は、封建時代に加賀の大名が持っていたもので、加賀屋敷と呼ばれていた。 市内にある他の屋敷も、大名の領地の名で呼ばれる。 かかる構えに関する詳細は、日本に就いて書かれた信頼すべき書類によってこれを知られ度い。 大名のある者は大なる富、陸地を 遙々 ( はるばる )と江戸へ来る行列の壮麗、この儀式的隊伍が示した堂々たる威風……これ等は封建時代に於る最も印象的な事柄の中に数えることが出来る。 加賀の大名は家来を一万人連れて来た。 薩摩の大名は江戸に来るため家来と共に、五百マイル以上の旅行をした。 これ等に要する費用は莫大なものであった。 現在の加賀屋敷は、立木と 藪 ( やぶ )と、こんがらかった灌木との野生地であり、数百羽の烏が鳴き騒ぎ、あちらこちらに古井戸がある。 ふたのしてない井戸もあるので、すこぶる危い。 烏は我国の鳩のように馴れていて、ごみさらいの役をつとめる。 彼等は鉄道線路に沿った木柵にとまって、列車がゴーッと通過するとカーと鳴き、朝は窓の外で鳴いて人の目をさまさせる。 我々は外山教授と一緒に帝国大学を訪れた。 日本服を着た学生が、グレーの植物学を学び、化学実験室で仕事をし、物理の実験をやり、英語の教科書を使用しているのを見ては、一寸妙な気持がせざるを得なかった。 この大学には英語を勉強するための予備校が付属しているので、大学に入る学生は一人のこらず英語を了解していなくてはならない。 私は文部卿に面会した。 立派な顔をした日本人で、英語は一言も判らない。 若い非常に学者らしい顔をした人が、通訳としてついて来た。 この会見は、気持はよかったが、恐ろしく形式的だったので、私にはこのように通訳を通じて話をすることが、いささか気になった。 日本語の上品な会話は、聞いていて誠に気持がよい。 ドクタア・マレーも同席されたが、会話が終って別れた時、私が非常にいい印象を与えたといわれた。 私はノート無しに講義することに馴れているが、この習慣がこの際、幸にも役に立ったのである。 私は最大の注意を払って言葉を選びながら、この国が示しつつある進歩に就いて文部卿をほめた。 昼過ぎにはウィルソン教授(我々は同教授と昼飯を共にした)が私を相撲見物に連れて行ってくれた。 周囲の光景がすでに面白い。 小さな茶屋、高さ十フィートばかりの青銅の神様若干、それから例の如き日本人の群集。 我々は切符を買った。 長さ七インチ、幅二インチ半、厚さ半インチの木片で漢字がいくつか印刷してある。 興行場は棒を立て、 たるきを横に渡した場所に、天井に 蓆 ( むしろ )を使用し、壁もまた蓆で出来ていた。 粗末な 桟敷 ( さじき )、というよりも寧ろ桟敷二列がこの建物の周囲をめぐっているのだが、これもまた原始的なものであった。 その中心に柱が四本立っていて、その間は高くなっており、直径二十フィートもあろうかと思われる 円場 ( どひょう )が上に赤い布の天蓋を持って乗っている(図 13)。 柱の一本ずつに老人が一人ずつ坐っているのは、何か審判官みたいなものであるらしい。 また厳格な顔をして、派手な着物を着た男がアムパイアの役をする。 巨大な、肥えた相撲取りが円場にあらわれ、脚をふんばり、まるで試験をするように両脚を上下したり、力いっぱいひっぱたいたりした後、さて用意が出来ると顔つき合わせて数分間うずくまり、お互に相手の筋肉を検査する(彼等は犢鼻褌をしている丈である)有様は、まことに物珍しく且つ面白い観物であった。 いよいよ準備が出来ると二人は両手を土につけ、そこで突然飛びかかる。 円場から相手を押し出すか投げ出すかするというのが仕業なんである。 この闘争が非常に短いこともあり、また活発で偉大なる力を見せたこともある。 時としては単に円場から押し出され、時としては恐ろしい勢で投げつけられる。 ある相撲取りは円場から投り出されて、頭と肩とで地面に落ちた。 立ち上ったのを見るとそこをすりむいて血が流れていた。 私がふり向いて見物人を見ることが出来るように、我々は円場にごく接近して坐った。 場内は ( ほぞ )穴を持つ横木で、六フィート四方位の場所にしきられている。 これがボックスなので、そのしきりの内の場所は全部あなたのものである。 見物人のある者は筆を用意して来て、相撲の有様を書きとめていた。 また炭火の入った道具と小さな急須とを持っていて、時々小さな茶碗に茶を注いで飲む見物人もあった。 日本人たちが不思議そうに、ウィルソン教授の八つになる男の子を眺めるのを見ることは、私にとっては、他のいずれの事物とも同じ位興味があった。 この可愛らしい子供は、相撲がよく見えるように、例のかこいの一方に腰をかけていた。 見物人が全部膝を折って坐っているのにハリイだけが高い所にいるのだから、彼等は一人のこらず彼を眺めることが出来た。 彼の色の濃い捲毛と青い目とは、まだ外国人が珍しい東京にあっては、 まっかな目玉と青い頭髪が我々に珍しいであろう程度に、不思議なものなのである。 所で、この色の白い、かよわそうに見える子供は、日本語を英語と同じようによく話す。 彼がお父さんのために後をむいて、演技のある箇所を質問し、そしてそれを英語で我々に語った時の日本人たちの驚きは非常なものであった。 彼が自分たちの言葉を話すと知った日本人たちのうれしそうな顔は、まことに魅力に充ちたものであった。 私は相撲を見ている間に、何度も何度も、彼等の感嘆した顔が見たいばかりに、ハリイをして日本人にいろいろな質問を発せしめた。 相撲取りたちは非常に大きくて、力が強かった。 ある者は実に巨大であった。 彼等は実際よく肥っている。 だが彼等は敏捷さよりも獣的の力をより多く示すように思われた。 幾度か彼等は取組み合うと、アムパイアが何か正しからぬことを見つけて彼等を止める。 すると彼等は四本柱の一つに当る一隅に行く、そこで助手が飲水を手渡すと、彼等はそれを身体や両腕に吹きかけ、さて砂を一つかみ取って腋の下にこすりつけてから、円場の真中に来てうずくまる。 正しく開始する迄に、同じことを六遍も八遍もやる。 時に彼等はこのような具合(図 14)になり、一人が「オーシ」というと一人が「オーショ」といい、これを何度もくりかえす。 だが、その間にも相撲取りたちは各々自分の地位を保持するために、力いっぱいの努力を続けているのである。 最後にアムパイアが何かいうと、二人は争いをやめて円場の外に出る。 この勝負は明かに引き分けとなったらしい。 巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。 上機嫌で丁寧である。 悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。 そして演技が終って見物人が続々と出て来たのを見ると、押し合いへし合いするものもなければ、高声で 喋舌 ( しゃべ )る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。 只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。 再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。 彼は先約があるので、私を停車場につれて行く訳に行かなかったのである。 かくて私は三十分間、この大きな都会の狭い町並を旅していた。 その間に欧米人には一人も行き会わず、また、勿論、私が正しい所へ行きつつあるのか、間違った方向へ行きつつあるのか、まるで見当がつかなかった。 汽車に乗って東京を出ると、すぐに江戸湾の水の上に、海岸と並行して同じような形の小さい低い島が五つ一列にならんでいるのが見える。 これ等の島が設堡されているのだと知っても、別に 吃驚 ( びっくり )することはないが、只どんなに奇妙な岩層か、あるいは侵蝕かが、こんな風に不思議な程対称的な島をつくる原因になったのだろうということに、驚きを感じる。 そこで説明を聞くと、これ等の島は人間がつくったもので、而もそのすべてが五ヶ月以内に出来上ったとのことである。 ペリー提督が最初日本を去る時、五ヶ月の内にまた来るといいのこした。 そこでその期限内に日本の人達は、単にこれ等五つの島を海の底から築き上げたばかりでなく、それに設堡工事をし、更にある島には大砲を備えつけた。 かかる仕事に要した信じ難い程の勤労と、労働者や船舶の数は、我々に古代のエジプト人が行った手段となしとげた事業とを思わせる。 只日本人は、古代の人々が何年かかかってやっとやり上げたことを、何日間かでやって了ったのである。 これ等の島は四、五百フィート平方で約千フィート位ずつ離れているらしく見える。 東京の公園で我々は氷河の作用を受けたに違いないと思う転石を見たが、あとで聞くと、それは何百マイルもの北の方から、和船ではこばれた石であるとのことであった。 我々は散歩をしていて時々我国の墓地によく似た墓地を見た。 勿論墓石の形は異っている。 我国で見るような、長くて細い塚は見当らず、また石屋の芸術品である所の 見栄 ( みえ )を張った、差出がましい 代物 ( しろもの )が無いので大いに気持がいい。 日本人はいろいろな点で訳の分った衛生的な特色を持っているが、火葬の習慣もその一である。 死体の何割位を火葬にするのか私は知らないが、兎に角多い。 夜中に時々、規則的なリズムを持つ奇妙なカチンカチンという音を聞くことがある。 これは私設夜警が立てる音で、時間をきめて一定の場所を巡回し、その土地の持主に誰かが番をしつつあることを知らせるために、カチン カチンやるのである。 また昼夜を問わず、 疳 ( かん )高い、哀れっぽい調子の笛を聞くことがある。 この音は盲目の男女が彼等の職業であるところの 按摩 ( あんま )を広告して歩くものである。 このような按摩は、呼び込まれると三十分以上にもわたって、たたいたり、つねったり、こすったり、撲ったりする。 その結果、それが済むと、按摩をして貰った人が、まるで生れ更ったかのように感じるような方法でこれを行うのだが、この愉快さを味って、而もたった四セント払えばいいのである! この帝国には、こうやって生活している盲人が何千、何万とある。 彼等は正規の学校に通って、マッサージの適当な方法を学ぶ。 これ等不幸な人達は 疱瘡 ( ほうそう )で盲目になったのであるが、国民のコンモンセンスが種痘の功徳を知り、そして即座にそれを採用したので、このいやな病気は永久に日本から消え去った。 我々は我国にいて、数字や統計の価値を了解すべく余りに愚鈍である結果、種痘という有難い方法を拒む、本当とは思えぬ程の莫迦者共のことを、思わずにはいられなかった。 このような人達は適者生存の法理によって、いずれは疱瘡のために死に絶え、かくて民族は進歩の途をたどる。 それから、食物その他を売って歩く行商人の呼び声は、極めて風変りなので、ただちに人の注意を引き、その声を聞くために後をついて行くことさえある。 花売りの呼び声は、死に瀕した牝鶏の鳴き声そのままである。 店で売る品物を陳列する方法は多く簡単で且つ面白い。 一例として、 団扇 ( うちわ )屋は節と節との間に穴をあけた長い竹を団扇かけとして使用する。 穴に団扇をさし込むのである。 台所でも同じような物に木製の 匙 ( さじ )や 箆 ( へら )や串等をさし込む(図 15)。 それで、ちょっと乗った丈でも、しょっ中油断なくしていられ、興味深く、また面白がっていられる。 二階のある家でいうならば、二階の手摺だけでも格子や彫刻や木材に自然が痕をとどめた物の数百の変種を見せている。 ある手摺は不規則な穴のあいた、でこぼこな板で出来ていた(図 16)。 このような粗末な、見っともない板は、薪にしかならぬと思う人もあるであろう。 然し日本人は例えば不規則な樹幹の外側をきり取つた板 [#「きり取つた板」はママ]、それは きのこのためによごれていて、また きのこが押しつけた跡が穴になっている物のような、「自然」のきまぐれによる自然的な結果をたのしむのである。 車を引く車夫は梶棒をかなり高く、丁度バランスする程度に押えている。 反対に、友人が通り過ぎたのに気がついて、頭と身体とを くるりと後に向け同時に後方に身体をかしげると、先ずたいていは人力車があおむけにひっくりかえり、乗っている人は静かに往来に投げ落される。 車夫は 恐懼 ( きょうく )して頭を何度も下げては「ゴメンナサイ」といい、群衆は大いによろこぶ。 日本人の持っている装飾衝動は止るところを知らぬ。 赤坊の頭でさえこの衝動からまぬかれぬ。 日本では我国と違って馬に蹄鉄を打たない。 馬や牛が藁でつくった靴をはいているのは、すこぶる観物である。 これは厚い、編んだ底を持っていて、ひづめの後に結びつけられる。 往来にはこんな靴が棄ててある。 四足の労役獣のばかりでなく二本足のも……。 第 17図は子供を背中に負う一つの方法を示している。 お母さんは背後に両手を廻し、そして赤坊の玩具を手に持っている。 それによると赤痢及び小児 霍乱 ( コレラ )は全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。 リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。 然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。 これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。 我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。 そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。 日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。 東京のように大きな都会で、この労役が数百人の、それぞれ定った道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。 桶は担い棒の両端につるし下げるのであるが、一杯になった桶の重さには、巨人も骨を折るであろう。 多くの場合、これは何マイルも離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製 柄杓 ( ひしゃく )で水田に撒布される。 土壌を富ます為には上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥が持って来られる。 元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねば駄目なのである。 日本には「新しい田からはすこししか収穫が無い」という諺がある。 この国の人々は頭に何もかぶらず、殊に男は頭のてっぺんを剃って、 赫々 ( かくかく )たる太陽の下に出ながら、日射病が無いというのは面白い事実である。 我国では不節度な生活が日射病を誘起するものと思われているが、この国の人々は飲食の習慣に於て節度を守っている。 街路や小さな横丁等は概して撒水がよく行われている。 路の両側に住む人々が大きな竹の柄杓で打水をしているのを見る。 東京では水を入れた深い桶を担い棒でかついだ男が町を歩きまわる。 桶の底の穴をふさぐ栓をぬくと、水がひろがって、 迸 ( ほとばし )り出る。 一方男はなるべく広い面積にわたって水を撒こうと、殆ど走らんばかりにして行く(図 18)。 水を運ぶバケツは、イーストレークがその趣味と実益とを大いに賞讃するであろうと思われる程、合理的で且つ簡単に出来ている。 桶板の二枚が桶そのものの殆ど二倍の高さを持って辺の上まで続き、その一枚から他へ渡した横木がハンドルを形づくっている(図 19)。 飲用水を入れた深い桶をこのような担い棒にぶら下げたのを見ることもある。 桶の中にはその直径に近い位の丸い木片が浮んでいる。 この簡単な装置は水がゆれてこぼれるのを防ぐ。 また桶板三枚が僅かに下に出て桶を地面から離す脚の役をつとめる、低い、浅い桶もある。 この容器には塩水を満し、生きた魚を売って廻る。 この国に来た外国人が先ず気づくことの一つに、いろいろなことをやるのに日本人と我々とが逆であるという事実がある。 このことは既に何千回となく物語られているが、私もまた一言せざるを得ない。 日本人は 鉋 ( かんな )で削ったり鋸で引いたりするのに、我々のように向うへ押さず手前に引く。 本は我々が最終のページとも称すべき所から始め、そして右上の隅から下に読む。 我々の本の最後のページは日本人の本の第一頁である。 彼等の船の帆柱は船尾に近く、船夫は横から艪をこぐ。 正餐の順序でいうと、糖果や生菓子が第一に出る。 冷水を飲まず湯を飲む。 馬を厩に入れるのに尻から先に入れる。 「茶を火にかける」建物は百尺に百五十尺、長く低い 竈 ( かまど )の列(竈というよりも大きな釜が煉瓦に取りかこまれ下に火を入れる口がある)があって、中々面白い場所である。 釜は 錫 ( すず )か亜鉛に似た合金で出来ていて、火は日本を通じての燃料である所の木炭によって熱を保つ。 彼の任務は茶の葉を焦げぬように手でかきまわすことである。 時として横浜の空気がこの植物の繊美な香で充満するということを聞くと、火を入れるために茶が香気を失うのではあるまいかと想像する人もあろう。 ここの暑さは息づまるばかりであった。 男は犢鼻褌一つ、年取った女の多くは両肌ぬぎ。 どの人も茶道具を持っていた。 小さなパイプを吸っている者も多かった。 大小いろいろな 嬰児 ( こども )達が、あるいは寵の列の間を走り廻り、又は煉瓦を組んだ上に坐っていた。 母親の背中にいるのもある。 子供達は殆ど如何なる職業にも商売にも、両親より大きな子供に背負われてか、あるいは手を引かれるかして、付き物になっている。 日本人があらゆる手芸を極めて容易に覚え込みそして器用にやるのは、いろいろな仕事をする時にきっと子供を連れて行っているからだ、つまり子供の時から見覚えているからだ、と信じても、大して不合理ではないように思われる。 すこしでも湿気があると 黴 ( かび )が生えて品質が悪くなる。 内地用の茶は僅かに火を入れる丈であるから、香気を失うことがすくない。 その結果最初の煎じ出しに対しては 微温湯 ( ぬるまゆ )さえあればいいので、この点我国の「湯は煮たぎっているに非ざれば……」云々なる周知の金科玉条とは大部違う。 日本で出喰わす愉快な経験の数と新奇さとにはジャーナリストも汗をかく。 劇場はかかる新奇の一つであった。 友人数名と共に劇場に向けて出発するということが、すでに素晴しく景気のいい感を与えた。 人通りの多い町を一列縦隊で勢よく人力車を走らせると、一秒ごとに新しい光景に、新しい物音、新しい香い(この最後は必ずしも常に気持よいものであるとはいえぬ)に接する……これは忘れることの出来ぬ経験である。 間もなく我々は劇場に来る。 我々にとっては何が何やらまるで見当もつかぬような支那文字をべったり書いた細長い布や、派手な色の 提灯 ( ちょうちん )や、怪奇な 招牌 ( かんばん )の混合で装飾された変てこりんな建物が劇場なのである。 内に入ると我々は両側に三階の桟敷を持った薄暗い、大きな、粗末な広間とでもいうような所に来る。 劇場というよりも巨大な納屋といった感じである。 床は枠によって六百フィート平方、深さ一フィート以上の場所に、仕切られているが、これ等の箱が即ち 桝 ( ます )で、その一つに家族一同が入って了うという次第なのである(図 21)。 日本人は脚を身体の下に曲げて坐る。 トルコ人みたいに脚を組み合わせはしない。 椅子も腰かけもベンチも無い。 家中で来ている人がある。 母親は赤坊に乳房をふくませ、子供達は芝居を見ずに眠り、つき物の火鉢の上ではお茶に使う湯があたためられ、老人は煙草を吸い、そしてすべての人が静かで上品で礼儀正しい。 二つの通廊は箱の上の高さと同じ高さの床で、人々はここを歩き、次に幅五インチ位の箱の縁を歩いて自分の席へ行く。 舞台の中央には床と同高度の、直径二十五フィートという巨大な回転盤がある。 場面が変る時には幕を下さず、俳優その他一切合財を乗せたままで回転盤が徐々に回転し、道具方が忙しく仕立てつつあった新しい場面を見せると共に今迄使っていた場面を見えなくする。 観客が劇を受け入れる有様は興味深かった。 彼等は、たしかに、サンフランシスコの支那劇場で支那人の観客が示したより以上の感情と興奮を見せた。 ここで私は 句的につけ加えるが、上海に於る支那劇場は、サンフランシスコのそれとすこしも異っていなかった。 サンフランシスコの舞台で、大きな、丸いコネティカット出来の柱時計が、時を刻んでいた丈が相違点であった。 劇は古代のある古典劇を演出したものとのことであった。 言語は我々の為に通訳してくれた日本人にとってもむずかしく、彼は時々ある語句を捕え得るのみであった。 酔っぱらった場面は、大いに酔った勢を発揮して演出された。 剥製の猫が長い竿のさきにぶらさがって出て来て手紙を盗んだ。 揚幕から出て来た数人の俳優が、舞台でおきまりの 大股 ( ろっぽう )を踏んで大威張りで高めた通廊を歩く。 その中で最も立派な役者は、子供が持つ長い竿の先端についた蝋燭の光で顔を照らされる。 この子供も役者と一緒に動き廻り、役者がどっちを向こうが、必ず蝋燭を彼の顔の前にさし出すのである(図 22)。 子供は黒い衣服を着て、あとびっしゃりをして歩いた。 彼は見えないことになっている。 まったく、観客の想像力では見えないのであるが、我々としては、彼は俳優たちとすこしも違わぬ程度に顕著なものであった。 脚光が五個、ステッキのように突っ立った高さ三フィートのガス管で、目隠しもないが、これが極最新の設備なので、こんな風なむき出しのガス口が出来る迄は、俳優一人について子供一人が蝋燭をもって顔を照らしたものである。 後見は我国に於るそれと異り、隠れていないで、舞台の上を 故 ( ことさ )らに歩き廻り、かわり番に各俳優の後に来て(私のテーブルはたった今地震で揺れた。 またあった)隠れているかのように 蹲 ( うずくま )り、そして明瞭に聞える程の大声で助言する。 図 23は舞台の大略をスケッチしたものである。 舞台の上には下げ幕として、鮮かな色の紙片を沢山つけた硬い繩がかたまって下っている。 音楽は支那の劇場に於るが如く勢よくもなく、また声高でもなかった。 過去に於る婦人の僕婢的服従は、女を演出する俳優(我々は男、あるいは少年が、女の役をやるのだと教わった)が、常に蹲るような態度をとることに依て知られた。 幕間には大きな幕が舞台を横切って引かれる。 その幕の上には、ある種の扇子の絵のような怪奇さを全部備えた、最も巨大な模様が目も覚めるような色彩であらわしてある。 すべての細部にわたって劇場は新奇であった。 こんな短い記述では、その極めて薄弱な感じしか出せない。 あらゆる種類の商売や職業が盛んに行われつつある。 私の見た範囲では、日曜を安息日とする例は、薬にしたくもない。 この日の午後、私は上野公園の帝室博物館を訪れるために東京へ行った。 公園の人夫たちは忙しく働いている。 博物館の 鎧戸 ( よろいど )は下りていたが、裸の大工が二十人(いずれも腰のまわりに布をまいている)テーブルや陳列箱の細工をしていた。 博物館には完全に驚かされた。 立派に標本にした鳥類の蒐集、内国産甲殻類の美しい陳列箱、アルコール漬の大きな蒐集、その他動物各類がならべてある。 そして面白いことに、標示札がいずれも日本語で書いてある。 教育に関する進歩並に外国の教育方針を採用している程度は、まったくめまぐるしい位である。 東京の町々を通っていて私はいろいろな新しいことを観察した。 殆どすべての家の 屋梁 ( むね )の上に足場があり、そこには短い階段がかかっている。 ここに登ると大火事の経過がよく判る。 まったくこの都会に於る火事は、その速さも範囲も恐る可きものが 屡々 ( しばしば )ある。 人の住いはたいてい一階か二階建ての、軽い、見た所如何にも薄っぺらなものであるが、然し、かかる住宅の裏か横かには、厚さ二フィート、あるいはそれ以上の粘土か泥の壁を持つ防火建築がある。 扉や僅かな窓の戸も、同じ材料で出来ていて非常に厚く、そして三つ四つの分離した鋸歯がついている点は、我国の金庫の扉と全く同じようである。 家と家とは近接していはするが、一軒一軒離れている。 大火事が近づいて危険になって来ると、この防火建築の重い窓の戸や扉を閉じ、隙き間や孔を粘土でふさぐ。 その前に蝋燭数本を床の安全な場所に立ててそれに点火するのは、かくて徐々に酸素を無くし引火の危険を減ずるためである。 日本人は燃焼の化学を全然知らぬものとされているが、実際に於ては彼等はその原論を理解し、且つ私の知る限り、他の国ではどこでもやっていないのに、その原論を実地に応用しているではないか。 このような建物は godown と呼ばれる。 これはインド語である。 日本では「クラ」という。 商人や家婦が大急ぎで荷物をかかる倉庫に納め、近所の人達もこのような保護を利用する。 大火事の跡に行って見ると、この黒い建物が、我国の焼跡に於る煙突のような格好で立っている。 焼け落ちた蔵を見ると、我国で所謂耐火金庫のある物で経験することを思い出す。 日本及び他の東洋の国々を訪れる者が非常に早く気づくことは、殆ど一般的といってもよい位、ありとあらゆる物品に竹を使用していることである。 河に沿って大きな竹置場がいくつもあり、巨大な束にまとめられた竹が立っている。 竹製品の一覧表を見ることが出来たらば、西洋人はたしかに一驚を喫するであろう。 私は道路修繕の手車から、小さな石ころが粗末な竹の 耨 ( ホー )でかき出されるのを見た。 一本の竹の一端を八つに裂いてそれを箒のようにひろげると、便利な、箒に似た 熊手 ( レーク )が出来る。 これは一本で 箒 ( ブルーム )、 熊手 ( レーク )、 叉把 ( ピッチ・フォーク )の役をする。 不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。 日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。 大学を出て来た時、私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。 私は、米国の辻馬車屋がするように、彼等もまた揃って私の方に馳けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異った麦藁を四本ひろい、そして 籤 ( くじ )を 抽 ( ひ )くのであった。 運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。 汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の 轂 ( こしき )にぶつかった。 車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。 私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る 罵詈雑言 ( ばりぞうごん )とを比較した。 何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。 また今迄の所、動物に対して疳癪を起したり、虐待したりするのは見たことが無い。 口小言をいう大人もいない。 箸という物はナイフ、フォーク、及び匙の役をつとめる最も奇妙な代物である。 どうしてもナイフを要するような食物は、すでに小さく切られて膳に出るし、ソップはお椀から直接に呑む。 で、箸は食物の小片を摘むフォーク、及び口につけた茶椀から飯を口中に押し込むショベルとして使用される。 この箸の思いつきが、他のいろいろな場合に使われているのを見ては、驚かざるを得ない。 即ち鉄箸では火になった炭をつかみ、料理番は魚や菓子をひっくり返すのに箸を用い、宝石商は懐中時計のこまかい部分を組み立てるために繊細な象牙の箸を使用し、往来では紙屑拾いや掃除人が長さ三尺の箸で、 襤褸 ( ぼろ )や紙や其他を拾っては、背中に負った籠の中にそれを落し入れる。 往来を歩いていると、目立って乞食のいないことに気がつく。 不具者のいないことも著しい。 人力車の多いのには 吃驚 ( びっくり )する! 東京に六万台あるそうである! これは信用出来ぬ程の数である。 あるいは間違っているのかも知れぬ。 旅行中の国の地方的市場を訪れることは、博物学の興味ある勉強になる。 世界漫遊者は二つの重大な場所を訪れることを忘れてはならぬ。 その土地の市場と、ヨーロッパでは土地の美術館とである。 市場に行くとその地方の博物を見ることが出来るが、特にヨーロッパでは固有の服装をした農民達を見ることが出来るばかりでなく、手製の箱、籠等も見られる。 横浜の市場訪問は興味深い光景の連続であった。 莚を屋根とし、通路の幾筋かを持つ広い場所には、私が生れて初めて見た程に沢山の生きた魚類がいた。 いろいろ形の変った桶や皿や笊を見る丈でも面白かったが、それが鮮かな色の、奇妙な形をした、多種の生魚で充ちているのだから、この陳列はまさに 無比 ( ユニーク )であった。 縁 ( ふち )よりも底の方が広い、一風変った平な籠は魚を入れるのに便利である。 こんな形をしていれば、すべっこい魚とても容易に辷り出ないからである(図 24)。 いろいろな 種 ( スペシス )の食用軟体動物(色どりを鮮かに且つ生々と見せるために、水のしぶきが吹きかけてある)を入れた浅い桶には、魅せられて了った。 我国の蒐集家が稀貴なりとする標本が、笊の中にザラザラと入って陳列されている。 男の子が双殻貝の小さな美しい一種をあけていたが、中味を取って貝殻は惜気もなく投り出して了う。 浅い桶に、我国の博物館では珍しいものとされている最も非凡な形をした大小のクルマエビや、怪異な形状で、奇妙な姿のカニが、ここにはいくつとなくある。 大きな 牡蠣 ( かき )に似た生物が一方の殻をはがれて曝されているが、心臓が鼓動しているのはそれが新鮮で生きている証拠である。 真珠を産する貝 Haliotis カリフォルニア沿岸では abalone といい、ここでは「アワビ」というものが、食品として売り物に出ている(図 25)。 浅い竹籠に三つずつ貝を入れたのを売っていたが、その貝殻には美しい海藻や管状の虫がついていて、さながら海の生物の完全な森林を示していた。 私が最も珍しく思ったのは頭足類で、 烏賊 ( いか )も 章魚 ( たこ )(図 26)もあり、中には大きいのもあったが、生きたのと、すぐ食えるように 茹 ( ゆ )でたのと両方あった。 即ち低い台の上にのせた大きな円い水槽に常に水を満たし、その水槽から所々に穴をあけた長い竹の管が出ていて、この穴から水がかなりの距離にまで噴出するのである。 槽に入れる水は人が 天秤棒 ( てんびんぼう )の両端に塩水を入れた重いバケツをぶら下げて、海と市場とを往復するのであるが、私はこのようにして数マイルも海岸を距った地点にある市場へ海水を運ぶ人を見たことがある。 噴き出す水を受けるのは浅い桶で、それには生魚が入っている。 このようにして新鮮な海水が魚に与えられるばかりでなく、その水は同時に空気を混合される(図 27)。 食料として展観される魚の種類の数の多さには驚かざるを得ない。 日本には養魚場が数箇あり。 鮭は人工的に養魚される *。 市場の野菜部は貧弱である。 外国人が来る迄は極めて少数の野菜しか知られていなかったものらしい。 ダイコンと呼ばれるラディッシの奇妙な一種は重要な食物である。 それは長さ一フィート半、砂糖大根の形をしていて、色は緑がかった白色である。 付合せ物として生で食うこともあるが、また醗酵させてザワクラウトに似たような物にする事もある。 この後者たるや、私と一緒にいた友人の言をかりると、製革場にいる犬でさえも尻尾をまく程臭気が強い。 往来を運搬しているのでさえも判る。 そしてそれは 屑 ( ごみ )運搬人とすれ違うのと同じ位不愉快である。 トマトは非常に貧弱でひどく妙な格好をしているし、桃は小さく固く、未熟で緑色をしている。 町の向う側で男の子が桃を噛る音が聞える位であるが、而も日本人はこの固い、緑色の状態にある桃を好むらしく思われる。 梨はたった一種類しかないらしいが、まるくって甘味も香りもなく、外見と形が大きな、左右同形のラセットアップル〔朽葉色の冬林檎〕に似ているので、梨か林檎か見分けるのが困難であった。 果実は甘さを失うらしく、 玉蜀黍 ( スイート・コーン )は間もなく砂糖分を失うので数年ごとに新しくしなければならぬ。 〔外国から苗種を輸入した植物のことであろう。 玉蜀黍は数年ごとに直輸入の種子を蒔かぬと、甘さが減じて行くのであったろう。 〕 莢 ( さや )入りの豆は面白い形をした竹の筵に縫いつけられて売物に出ている(図 28)。 鶏卵は非常に小さい。 我々が珍しいものとして保存するものを除いては、今迄に見たどの鶏卵よりも小さいのが、大きな箱一杯つまっている所は中々奇妙に思われた。 私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。 錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入しても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。 私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また、今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚もって来た。 この国の人々も所謂文明人としばらく交っていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。 昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明け得る程弱いのである。 ある茶店で私は始めて日本の国民的飲料である処のサケを味った。 酒は米から醸造した飲料で、私の考ではラーガー・ビヤより強くはなく、我々が 麦酒 ( ビール )に使用する半リッタア入りの 杯 ( マッグ )の代りに日本人は酒を小さな浅い磁器の盃から 啜 ( すす )る(図 29は酒の盃実物大)。 酒は常に熱くして飲むのである。 私は冷たい儘をよりよしとなして数杯飲んだが一向に反応を感じなかった。 確かにクラーレットよりも強くない程である。 全体として私は酒をうまいものだと思った。 私が今迄に味ったワインやリキュールのどれとも全く異っていて、ゼラニウムの葉を思わせるような香を持っている。 今日までの所では、千鳥足の酔漢は一人も見ていない。 もっとも夜中、時々歌を唄って歩く者に逢うが、これは飲み過ぎた徴候である。 日本人はあまり酒をのまぬ民族と 看做 ( みな )してよかろう。 日本人が物静かな落着いた人々である証拠に、彼等が指でコツコツやったり、口笛を吹いたり、手に持っている物をガタガタさせたり、その他我々がやるような神経的であることの表現をやらぬという事実がある。 昨夜東京から帰りに私は狭い往来を口笛を吹きながら手で昆虫箱をコツコツ叩いて歩いた。 すると人々はまるで完全な楽隊が進行でもしているかのように、明けはなした家から外を見るのであった。 日本人は決して疳癪を起さないから、語勢を強める為に使用する間投詞を必要としない。 「神かけて云々」というような 起請 ( オース )はこの国には無い。 非常に腹が立った時、彼等が使う最も酷い言葉は、莫迦と獣とを意味するに止る。 而もジェントルマンはこのような言葉さえも口にしない。 日本の気候は著しくよいとされている。 従来必ず流行した疱瘡は、政府が一般種痘のために力強い制度を布き、その目的のために痘苗製造所を持つに至って、今や制御し得るようになった。 この事に於て、他の多くに於ると同様、日本人は西洋の国民よりも遙かに進歩している。 猩紅熱 ( しょうこうねつ )は殆ど無く、流行することは断じてない。 ジフテリヤも極めて稀で、これも流行性にはならぬ。 赤痢か慢性の下痢とかいうような重い腸の病気は非常にすくなく、肺結核は我国の中部地方に於るよりも多くはない。 マラリア性の病気は重いものは稀で、軽い性質のものも多くの地方には稀である。 急性の関節リューマチスは稀だが、筋肉リューマチスは非常に一般的である。 腸 窒扶斯 ( チフス )及び神経熱はめったに流行しない。 殊に後者はすくない。 再帰熱は時々見られる。 皮膚病、特に伝染性のものは多い。 話によると骨の傷害や挫折の [#「骨の傷害や挫折の」はママ]治癒は非常に遅く、而も屡々不完全だそうである。 米の持つ灰分は小麦の半分しか無く、おまけに水が骨に必要な無機物を充分に供給しないからである。 日本人の多くが美しい白い歯を見せる一方、悪い歯も見受ける。 門歯が著しくつき出した人もいるが、この不格好は子供があまり遅くまで母乳を飲む習慣によるものとされる。 即ち子供は六、七歳になるまでも乳を飲むので、その結果歯が前方に引き出されるのであると。 日本人は既に外国の歯科医学を勉強しているが、彼等の特殊的な、そして繊細な機械的技能を以てしたら、間もなく巧みな歯科医が出来るであろう。 日本は泰西科学のどの部門よりも医学に就いて最も堅実な進歩を遂げて来た。 医学校や病院は既に立派に建てられている。 外国から輸入されるすべての薬が純であるかどうか分析して調べるための化学試験所はすぐ建てられた。 泰西医療術の採用が極めて迅速なので、皇漢法はもう亡びんとしている程である。 宗教的信仰に次いで人々が最も頑固に固執するのは医術的信心であって、それが如何に荒唐無稽で莫迦げていても容易に心を変えぬ。 支那の医術的祭礼を速に合理的且つ科学的な泰西の方法に変えた所は、この国民があらゆる文明から最善のものをさがし出して、それを即座に採用するという著しい特長を持っていることの圧倒的実例である。 我々は他の国民の長所を学ぶことが比較的遅い。 我々はドイツやイングランドには我国のよりも良い都市政制度があり、全ヨーロッパにはよりよき道路建設法があることを知っている。 だが我々は果してこれ等の制度を迅速に採用しているであろうか。 我国の人々は、丸い真鍮製で中央に四角な穴のあいている支那の銭をよく知っている。 日本にも同様なものや、またより大きく、楕円形で中心に四角な穴のあいたものもある。 我々は屡々この穴が何のためにあるのかと不思議に思った。 これは人が銭を南京玉のように粗末な藁繩で貫いたり、木片の上に垂直に立つ小さな棒に通して積み上げたりする為らしい(図 30)。 それは日本が子供達の天国だということである。 この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。 赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。 刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、 五月蠅 ( うるさ )く 愚図愚図 ( ぐずぐず )いわれることもない。 日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、彼等は如何にも甘やかされて増長して了いそうであるが、而も世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に 如 ( し )くものはない。 爾 ( なんじ )の父と母とを尊敬せよ……これは日本人に深く浸み込んだ特性である。 子供達は赤坊時代を過ごすと共に、見た所素直げに働き始める。 小さな男の子が往来でバケツから手で水を撒いているのを見ることがある。 あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。 日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている。 日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。 木製の履物なり藁の草履なりを、文字通り踏み外してから入る。 最下層の子供達は家の前で遊ぶが、それにしても地面で 直 ( じ )かに遊ぶことはせず、大人が筵を敷いてやる。 町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。 バー・ハーバア、ニューポート及びその階級に属する場所等を稀な例外として、我国に於る防海壁に沿う無数の地域には、村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。 全くこのような見っともない状態が、 都鄙 ( とひ )いたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。 汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。 この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。 田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。 我国の静かな田園村落の外縁で、屡々見受ける、灰や 蛤 ( はまぐり )の殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。 優雅なケンブリッジ〔ハーヴァード大学所在地〕に於て二人の学者の住宅間の近道は、深い窪地を通っていた。 所がこの地面はある種の屑で美事にもぶざまにされていたので、数年間にわたって しゃれに「空罐峡谷」と呼ばれた。 日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。 いずれにしても卵の殻、お茶の 澱滓 ( かす )、その他すべての家の屑は、奇麗にどこかへ持って行って了うので、どこにも見えぬ。 日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの 廃物 ( ウェースト )を処分しなくてはならず、而もそれは本当の 不経済 ( ウェースト )である。 我国で有産階級は家のあたりを清潔にしているが、田舎でも都市でも、貧民階級が不潔な状態の大部分に対して責任を持つのである。 日本人が集っているのを見て第一に受ける一般的な印象は、彼等が皆同じような顔をしていることで、個々の区別はいく月か日本にいた後でないと出来ない。 然し、日本人にとって、初めの間はフランス人、イギリス人、イタリー及び他のヨーロッパ人を含む我々が、皆同じに見えたというのを聞いて驚かざるを得ない。 どの点で我々がお互に似ているかを尋ねると、彼等は必ず「あなた方は皆物凄い、睨みつけるような眼と、高い鼻と、白い皮膚とを持っている」と答える。 彼等が我々の個々の区別をし始めるのも、やはりしばらくしてからである。 同様にして彼等の一風変った眼や、平な鼻梁や、より暗色な皮膚が、我々に彼等を皆同じように見させる。 だが、この国に数ヶ月いた外国人には、日本人にも我々に於ると同じ程度の個人的の相違があることが判って来る。 同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊美で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。 下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。 一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。 荒々しく拒絶した所で何等の変りはない。 彼は依然微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる。 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。 即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。 衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。 こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。 我々は数ヶ日の間ある田舎の宿やに泊っていた。 下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。 我々は朝の四時に東京を立って駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。 こんなに早く、天の如く静かな大都会を横切ることは、まことに奇妙なものであった。 駅馬車の乗場で、我々は行を同じくする友人達と顔を合わせた。 文部省のお役人が一人通弁として付いて行って呉れる外に、日本人が二人、我々のために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。 朝の六時頃、ある町を通過したが、その町の一通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実等を持った人々が何百人となく集っていた。 野天の市場なのである。 この群衆の中を行く時、御者は小さな 喇叭 ( ラッパ )を調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。 この時ばかりでなく、徒歩の人なり人力車に乗った人なりが道路の前方に現われると、御者と馬丁とはまるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が 聾 ( つんぼ )で盲ででもあるかのように、叫んだり、怒鳴ったりするのである。 我々にはこの景気のいい大騒ぎの原因が判らなかったが、ドクタア・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのはここ数ヶ月前のことで、従って大いに物珍しいのだとのことであった。 この市場の町を過ぎてから、我々は重い荷を天秤棒にかけて、ヨチヨチ歩いている人を何人か見た。 大した荷である。 私は幾度かこれをやって見て失敗した。 荷を地面から持ち上げることすら出来ない。 然るにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまで行くのである。 また十マイルも離れている東京まで歩いて買物に行く若い娘を数名見た。 六時半というのに子供はもう学校へと路を急いでいる。 時々あたり前の日本服を着ながら、アメリカ風の帽子をかぶっている日本人に出喰わした。 薄い木綿の股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。 然し脚に何にもはかない人も多いので、これは別に変には思われなかった。 我々は水田の間を何マイルも何マイルも走ったが、ここで私は水車が灌漑用の踏み車として使用されているのを見た。 図 31は例の天秤棒で水車と箱とを運んで路を歩いて来る人を示している。 同じスケッチで、一人の男が車を踏んで水を溝から水田にあげつつある。 先ず箱を土手に入れ、車を適宜な凹に落し込むと、車の両側の泥に長い竿を立てる。 人はこの竿につかまって身体の平衡を保ちながら、両足で車をまわすのである。 農家は小ざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな 葺 ( ふ )いた屋根があるので絵画的であった。 時々お寺やお社を見た。 これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な 萱 ( かや )葺屋根を持つ大きな堂々とした建築物に至る、あらゆる階級があった。 これ等の建築物は、あたかもヨーロッパの 寺院 ( カセードラル )がその周囲の住宅を圧して立つように、一般民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。 面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。 聞く処によると、政府が補助をやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。 我々は学校として使用されている寺社をいくつか見受けた(図 32)。 かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行われている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。 そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴィリオン〔 亭 ( ちん )〕といった形なのだから、前からでも後からでも素通しに見ることが出来る。 片方の側の生徒達は我々に面していたので、中にはそこに立ってジロジロ眺める我々に、いたずららしく 微笑 ( ほほえ )むものもあったが、ある級は背中を向けていた。 見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横には我々が使用する算用数字が書いてある。 先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒達は最も奇態な、そして騒々しい、単調な唸り声で、彼の読んだ通りを繰り返す。 広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒達が学校へ入る時に脱いだままの形で、長い列をなして、ならんでいた。 私は、もしいたずらっ児がこれ等の履物をゴチャまぜにしたら、どんな騒ぎが起るだろうかと考えざるを得なかったが、幸にして日本の子供達は、嬉戯に充ちていはするものの、物優しく育てられている。 この名は「鳥の休息所」を意味するのだそうである。 これが路傍に立っているのを見たら、何等かのお社が、あるいは林のはるか奥深くであるにしても、立っているのだと知るべきである。 この趣向はもと神道の信仰に属したものであって何等の粉飾をほどこさぬ、時としては非常に大きな、白木でつくられたのであった。 支那から輸入された仏教はこの鳥居を採用した。 外国人が描いた鳥居の形や絵には間違ったものが多い。 日本の建築書には鳥居のある種の釣合が図表で示してある。 一例をあげると上の横木の末端がなす角度は縦の柱の底部と一定の関係を持っておらねばならないので、この角度を示すために点線が引いてある。 鳥居には石造のもよくある。 これ等は垂直部もまた上方の水平部も一本石で出来ている。 肥前の国には大きな磁器の鳥居もある。 道路に添って立木に小枝の束が縛りつけてあるのを見ることがある。 これは人々が集め、蓄え、そして、このようにして乾燥させる焚きつけなのである。 ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。 即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。 おまけに身につけた 襤褸 ( ぼろ )のひどさ! 私が銭若干を与えると彼等は数回続けて、ピョコピョコと頭をさげた。 一セントの十分一にあたる小銭は、このような場合最も便利である。 ある店で六セント半の買物をして十セントの仮紙幣を出した所が、そのおつりが片手に余る程の、いろいろな大きさの銅貨であった。 私は後日ここに来るヤンキーを保護するつもりで、貰ったおつりを非常に注意深く勘定する真似をしたが、あとで、そんなおつりを勘定するような面倒は、全く不必要であると聞いた。 午前八時十五分過ぎには十五マイルも来ていた。 而も車夫は我々と 略 ( ほぼ )同時に出立したのである。 多くの人々の頭はむき出しで、中には藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類の麦藁帽子も見受けられた。 水田に働く人達は、極めて広く浅い麦藁帽子をかぶっていたが、遠くから見ると生きた 菌 ( きのこ )みたいだった(図 33)。 片手に人形を持ち、その頭をポコンポコン動かしながら、彼は歌を唄うのであった。 艶々 ( つやつや )した鮮紅色の 石榴 ( ざくろ )の花が、家を取りかこむ濃い緑の木立の間に咲いている所は、まことに美しい。 街道を進んで行くと各種の家内経済がよく見える。 織 ( おりもの )が大部盛に行われる。 織機はその主要点に於て我国のと大差ないが、 紡車 ( いとぐるま )を我々と逆に廻すところに反対に事をする一例がある。 路に接した農家は、裏からさし込む光線に、よく磨き込まれた板の間が光って見える程あけっぱなしである。 靴のままグランド・ピアノに乗っかる人が無いと同様、このような板の間に泥靴を踏み込む人間はいまい。 家屋の開放的であるのを見ると、常に新鮮な空気が出入していることを了解せざるを得ない。 燕は、恰度我国で納屋に巣をかけるように、家の中に巣を営む(図 34)。 家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の直下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。 蠅はすこししかいない。 これは馬がすくないからであろう。 家蠅は馬肥で繁殖するものである。 こんな真似をすれば我々の多くは背骨を折って了うにきまっているが、日本人の背骨は子供の時から丈夫になるように育てられている。 このような破片のいくつかを、風が吹くと触れ合う程度に近くつるすと、チリンチリンと気持のいい音を立てるのである。 (図 36)。 どの店にしても、我々が立ち止ると、煙草に火をつける為の灰に埋めた炭火を入れた箱が差し出され、続いて小さな茶碗をいくつかのせたお盆が出る。 時として菓子、又は碌に味のしないような煎餅若干が提供された。 私は段々この茶に馴れて来るが、中々気持のよいものである。 それはきまって非常に薄く、熱く、そして牛乳も砂糖も入れずに飲む。 日本では身分の上下にかかわらず、一日中ちょいちょいお茶を飲む。 この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々が恐ろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででも我々が立ち止ると同時に老若男女が我々を取り巻いて、何をするのかとばかり目を見張る。 そして、私が小さな子供の方を向いて動きかけると、子供は気が違ったように泣き叫びながら逃げて行く。 馬車で走っている間に、私はいく度か笑いながら後を追って来る子供達を早く追いついて踏段に乗れとさしまねいたが、彼等は 即時 ( すぐ ) 真面目 ( まじめ )になり、近くにいる大人に相談するようなまなざしを向ける。 遂に私は、これは彼等が私の身振りを了解しないのに違いないと思ったので、有田氏(一緒に来た日本人)に聞くと、このような場合には手の甲を上に、指を数回素早く下に曲げるのだということであった。 その次に一群の子供達の間を通った時、私は教わった通りの手つきをやって見た。 すると彼等はすぐにニコニコして、馬車を追って馳け出した。 そこで私は手真似足真似で何人かを踏段に乗らせることが出来た。 上の図(図 37)は柔かい紐が赤坊の背中をめぐり、両腋と足の膝の所を通って、女の子の胸で結ばれる有様を示している。 子供はどこにでもいて、間断ない興味の源になる。 だがみっともない子が多い。 この国には 加答児 ( カタル )にかかっている子供が多いからである。 東屋 ( あずまや )の 桷 ( たるき )、縁側の手摺、笊、花生け、雨樋から 撥釣瓶 ( はねつるべ )にいたる迄、いずれも竹で出来ている。 家内ではある種の工作物を形づくり、台所ではある種の器具となる。 また竹は一般に我国に於る 唾壺 ( だこ )の代用として使用されるが、それは短く切った竹の一節を火壺と一緒に箱に入れた物で、人は慎み深く頭を横に向けてこれを使用し、通常一日使う丈で棄てて了う。 田舎を旅しているとすぐ気がつくが、雌鶏の群というものが見あたらぬ。 鶏の種類は二つに限られているらしい。 一つは立派な、脚の長い、 距 ( けづめ )の大きな、そして長くて美事な尾を持つ闘鶏で、もう一つは莫迦げて大きな 鶏冠 ( とさか )と、一寸見えない位短い脚とを持つ小さな倭鶏である。 歩いて廻る床屋が、往来に、真鍮張りの珍しい箱を据えて仕事をしている。 床屋はたいていは大人だが(女もいる)どうかすると若い男の子みたいなのもいる。 顔はどこからどこ迄剃って了う。 婦人でさえ、鼻、頬、その他顔面の表面を全部剃らせる。 我々が休憩した宿屋の部屋部屋には、支那文字の格言がかけてある。 日本人の通弁がその意味を訳そうとして一生懸命になる有様は中々面白い。 我々として見ると、書かれた言葉が国民にとってそれ程意味が不明瞭であることは、大いに不思議である。 読む時に、若し一字でも判らぬ字があると、通弁先生は五里霧中に入って了う。 接続詞が非常にすくなく、また文脈は役に立たぬらしい。 この格言が初めてである場合、若し四字の中の一字が判らないと、全体の意味が更に解釈出来なくなる。 つまり penny wise …… foolish とか、…… wise pound foolish とか(外の字が判らぬにしても同様である)いう風になって、何のことやら訳が判らぬ。 我々の通弁が読み得た文句は、いずれも非常に崇高な道徳的の性質のものであった。 格言、古典からのよき教え、自然美の嘆美等がそれである。 このような額は最も貧弱な宿屋や居酒屋にでもかけてある。 それ等の文句が含む崇高な感情を知り、絵画の優雅な芸術味を認めた時、私は我国の同様な場所、即ち下等な酒場や 旅籠 ( はたご )屋に於る絵画や情趣を思い浮べざるを得なかった。 田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、家内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の 瘤 ( こぶ )、花を生けるためにくりぬいた木質の きのこ。 これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである。 子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。 この、奇麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我国ではこわれた窓硝子を、古い帽子や何かをつめ込んだ袋でつくろうのであることを思い出した。 穀物を 碾 ( ひ )く臼は手で廻すのだが、余程の腕力を必要とする。 一端を臼石の中心の真上の 桷 ( たるき )に結びつけた棒が上から来ていて、その下端は臼の端に着いている。 人はこの棒をつかんで、石を回転させる(図 38)。 稲の殻を取り去るには木造で石を重りにした一種の踏み槌が使用される。 人は柄の末端を踏んで、それを上下させる。 この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見ると、支那ではすくなくとも二千年前からあるのである。 この米つきは東京の市中に於てでも見られる(図 39)。 搗 ( つ )いている人は裸で、藁繩で出来たカーテン〔繩のれん〕によってかくされている。 このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通りぬけ得るから、誠に便利である。 帳として使用したらよかろうと思われる。 目新しい風物と経験とはここに思い出せぬ程多かった。 六十六マイルというものを、どちらかといえばガタピシャな馬車に乗って来たのだが、見た物、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。 田舎の人々の物優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。 品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣に坐った。 私は日本語は殆ど判らぬながら、身振りをしたり、粗末な絵を描いたりして、具合よく彼女と会話をした。 お婆さんはそれ迄に外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。 彼女が私に向って発した興味ある質問は、我国の知識的で上品な老婦人が外国人に向ってなすであろうと、全く同じ性質を持っていた。 旅館に於る我々の部屋の清潔さは筆ではいい現わし得ない。 これ等の部屋は二階にあって広い遊歩道に面していた。 ドクタア・マレーのボーイ(日本人)が間もなく我々のために美事な西洋料理を調理した。 我々はまだ日本料理に馴れていなかったからである。 ここで私は宿屋の子供やその他の人々に就いての、面白い経験を語らねばならぬ。 即ち私は日本の紙に日本の筆で 蟾蜍 ( ひきがえる )、バッタ、 蜻蛉 ( とんぼ )、 蝸牛 ( かたつむり )等の絵を書いたのであるが、子供達は私が線を一本か二本引くか引かぬに、私がどんな動物を描こうとしているかを当てるのであった。 六十六マイルの馬車の旅で疲れた我々は、上述の芸当を済ませた上で床に就いた。 すくなくとも床から三フィートの高さの二本の棒に乗った、四角い 提灯 ( ちょうちん )の形をした夜のランプが持ち込まれた。 この構造の概念は、 絵(図 40)によらねば得られない。 提灯の一つの面は枠に入っていて、それを上にあげることが出来る。 こうして浅い油皿に入っている木髄質の燈心若干に点火するのである。 日本では床の上に寝るのであるが、やわらかい 畳 ( マット ) *がこの上もなくしっかりした平坦な表面を持っているので、休むのには都合がよい。 その大きさたるや我々がその内に立つことが出来る位で、殆ど部屋一杯にひろがった。 枕というは 黒板 ( こくばん )ふき位の大きさの、 蕎麦殻 ( そばがら )をつめ込んだ小さな袋である。 これが高さ三インチの長細い木箱の上にのっている。 枕かけというのは柔かな紙片を例の袋に結びつけたものである。 その日の旅で身体の節が硬くなったような気がした私は 按摩 ( あんま )、即ちマッサージ師を呼びむかえた。 彼は深い 痘痕 ( あばた )を持つ、盲目の老人であった。 先ず私の横に膝をつき、さて一方の脚を一種の戦慄的な運動でつまんだり撫でたりし始めた。 彼は私の膝蓋骨を数回前後に動かし、この震動的な 捏 ( こ )ねるような動作を背中、 肩胛骨 ( けんこうこつ )、首筋と続けて行い、横腹まで捏ねようとしたが、これ丈は 擽 ( くすぐ )ったくってこらえ切れなかった。 とにかく按摩術は大きに私の身体を楽にした。 そして三十分間もかかったこの奉仕に対して、彼はたった四セント半をとるのであった。 翌朝、我々は夙く、元気よく起き出でた。 今日は人力車で二十六マイル行かねばならぬ。 人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群をなして押しよせ、我々の衣類や動作を好奇心に富んだ興味で観察する有様は、まことに奇妙であった。 暑い日なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、一方ならず派手なズボンつりが群衆の特別な注意を惹いた。 このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人達ですら感心してくれなかった。 車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者共で、犢鼻褌だけの素っぱだか。 皮膚は常に太陽に照らされて褐色をしている。 彼等は速歩で進んでいったが、とある村に入ると気が違いでもしたかのように駈け出した。 私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざる得なかった。 我国の駅馬車も田舎道はブランブランと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。 宇都宮の二十五マイル手前から日光に近い橋石に至る迄、道路に接して立派な杉(松柏科の一種)の並木がある。 所々に高さ十二フィートを越える土手があり、その両側には水を通ずる為に深い溝が掘ってある。 その溝のある箇所には、水の流れを制御する目的で広い 堰 ( せき )が設けられている。 二十七マイルにわたって、堂々たる樹木が、ある場所では五フィートずつの間隔を保って(十五フィート以上間をおくことは決してない)道路を密に 辺取 ( へりど )っている有様は、まさに驚異に値する。 両側の木の梢が頭上で相接している場所も多い。 樹幹に深い穴があいている木も若干見えたが、これは一八六八年の革命当時の大砲の弾痕である。 所々樹の列にすきがある。 このような所には必ず若木が植えてあり、そして注意深く支柱が立ててある(図 41)。 時に我々は木の皮を大きく四角に剥ぎ取り、その平な露出面に小さな丸判を二、三 捺 ( お )したのを見た。 皮を剥いた箇所の五、六尺上部には藁繩が捲きつけてある(図 42)。 このような しるしをつけた木はやがて 伐 ( き )られるのであるが、いずれも密集した場所のが選ばれてあった。 人家を数マイルも離れた所に於て、かかる念入りな注意が払われているのは最も完全な保護が行われていることを意味する。 何世紀に亘ってこの帝国では、伐木の跡には必ず代りの木を植えるということが法律になっていた。 そしてこれは人民によって実行されて来た。 この国の主要な街道にはすべて一列の、時としては二列の、堂々たる並木(主に松柏科)がある。 奥州街道で我々は、村を除いてはこのような並木に、数時間に亘って唯一つの切れ目もないのを見ながら旅行をした。 普通、小さな 骨組建築 ( フレーム・ウワーク )か、 門 ( ゲート )の無い 門構 ( ゲート・ウェー )が村の入口を示し、そこを入るとすぐ家が立ち並ぶが、同様にして村の通路の他端を過ぎると共に、家は忽然として無くなって了う。 道路の両側に電信柱がある。 堤の上には柱を立てる余地が無いので、例の深い溝の真中に立ててあり、柱の底部に当って溝は手際よく切られ、堤の中に入り込んでいる(図 43)。 古いニューイングランド式の 撥釣瓶 ( はねつるべ )(桿と竿とは竹で出来ている)が、我国に於るのと全く同じ方法で掛けてあるのは、奇妙だった。 正午人々が床に横わって昼寝しているのを見た。 家は道路に面して開いているので、子供が眠ている母親の乳房を口にふくんでいるのでも何でもまる見えである。 野良仕事をする人達は、 つき物の茶道具を持って家に帰って来る。 山の景色は美しく、フウサトニック渓谷〔ニューイングランドを流れる川の一つ〕を連想させた。 屡々足の上部外側に 胼胝 ( たこ )、即ち皮膚が厚くなった人を見受けるが、その原因は坐る時の足の姿勢を見るに至って初めて理解出来る。 鍛冶 ( かじ )屋は地面に坐って仕事をする(手伝いは立っているが)。 大工は床の上で鋸を使ったり 鉋 ( かんな )をかけたりする。 仕事台も万力も無い大工の仕事場は妙なものである。 時々我々は不細工な形をした荷鞍の上に、素敵に大きな荷物を積んだ荷牛を見受けた。 また馬といえば、何マイル行っても種馬にばかり行き会うのであった。 東京市中及び近郊でも種馬ばかりである。 所が宇都宮を過ぎると、馬は一つの例外もなく牝馬のみであった。 この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特のものだとの話だが、疑も無くこれは支那その他の東方の国々でも行われているであろう。 私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移して見たいと想像した。 あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、決してみられなかった。 建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上っていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬ儘にしてあったりはしないのである。 屋根の多くは萱葺きで、地方によって屋背の種類が異っている。 靴の釘位の大きさの竹釘が我国の屋根板釘の役をつとめる。

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産屋敷輝利哉 (うぶやしききりや)とは【ピクシブ百科事典】

産屋敷加賀屋 死亡

スポンサーリンク 【鬼滅の刃】お館様が自爆した理由は? 産屋敷耀哉は、 自分の妻と二人の子供と一緒に自爆していましたが、無惨はこの大きなバク以外にも 罠があることや、柱たちがすぐ近くまで迫っていることを察知します。 無惨は思い違いをしていました。 産屋敷という男は完全に常軌を逸している。 何かを仕掛けてくるとは思っていたが、これ程とはと無惨は思っています。 爆薬の中にも無数の細かな撒菱のようなものが入っており、殺傷能力が高められています。 それはわずか一秒でも無惨の再生能力を遅らせるためのものであり…そのほかにもまだあると無惨はあたりを見渡します。 柱がこちらに向かってきていることももちろん感じていましたが、それだけではないもっと別の何かを産屋敷は用意しているのだと警戒します。 産屋敷は自分自身をおとりとして使ったのです。 無惨に対しての、怒りや憎しみ、そして強い殺意を産屋敷は隠していたのです。 そのことは驚嘆に値すると無惨は思っています。 そしてこの爆発は妻と子どもは承知していたのかと無惨は考えましたが…考えることをやめてしまいます。 スポンサーリンク 【鬼滅の刃】なぜ家族も一緒に巻き込んだ? 家族である妻と子供二人を巻き込んでの自爆。 数日前から無惨が屋敷に来ることを察知していたので、 妻や子供を避難させることは簡単なことだったと思います。 現に 跡継ぎの男の子はその場にはいませんでした。 きっと家族を巻き込んでの自爆は、 屋敷を突き止められてしまったからではないかと思います。 無惨に対しての対抗策のようなものも考えていました。 自分自身を囮にて、柱たちに無惨を倒してもらおうといていたのです。 自爆は無惨を倒すためではなく 柱たちを集めるための時間稼ぎではないかと思われます。 産屋敷の考えていた通りに、無惨が屋敷にやってきてその時に妻と子供が二人いることに気がつきます、 跡継ぎの男の子はいなかったので、どうして他の子供を巻き添えにしなくてはいけなかったのか、妻や子供は納得していたのだろうかと考えてしまいます。 たぶん無惨が狙っているのは、 産屋敷耀哉一人の命だと思います。 でも子孫を残さないように皆殺しにするかもしれませんね もし一人の命だけならば、産屋敷が一人でいて、無惨が来た時に自爆すればそれでよかったのだと思います。 それをわざわざ妻や子供のことを巻き込む人だとは思えないので、何か訳があったのではと思います。 無惨が現れた時、産屋敷一人だったとすれば、病気の産屋敷を一人置いて家族はなにをしているのだということになります。 それは、無惨がやってくることを産屋敷が察知していて、何らかの対策をしていると感づかれてしまいます。 そのことを避けるため、 妻と子供がいて、柱の護衛がないことを教え無惨に油断をさせたかったのです。 スポンサーリンク 【鬼滅の刃】お館様の心に残る名言 「 永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ」 「 これを否定するためには、否定する側もそれ以上のものを差し出さなければならない」 「 十二鬼月を倒しておいで、そうしたら皆に認められる、炭治郎の言葉の重みが変わってくる」 「 わかるか、これは兆しだ。 運命が大きく変わり始める。 この波紋は広がってゆくだろう。 周囲を巻き込んで大きく揺らし、やがてはあの男のもとへ届く」 「 鬼舞辻無惨、お前は必ず私たちの代で倒す。 」 「 君は必ず自分を取り戻せる無一郎」 「 刀は振ってみたけれど、すぐに脈が狂ってしまって十回もできなかった。 叶うことなら私も君たちのように体一つで人の命を守れる 強い剣士になりたかった」 「 杓子定規にものを考えてはいけないよ無一郎。 確固たる自分を取り戻したとき、君はもっと強くなれる」 「 寂しくはないよ、私ももう長くは生きられない。 近いうちに杏寿郎やみんなのいる、黄泉の国へ行くだろうから」 「 君たちが捨て駒だとするならば、私も同じく捨て駒だ。 鬼殺隊を動かす駒の一つに過ぎない。 私が死んだとしても何も変わらない、私の代わりはすでにいる」 お館様の名言を集めてみました。 説得力のある力強い言葉がたくさんあります。 その中には、 優しく癒される言葉もあり、お館様の人柄が滲み出た発言が印象に残ります。 スポンサーリンク まとめ 鬼殺隊を束ね、鬼舞辻無惨を敵対している産屋敷家の97代目当主産屋敷耀哉。 わずか23歳で人生の幕を閉じてしまいました。 自らを囮にし、妻や子を道ずれにして…。 多分 生まれた時から、無惨を倒すことだけを考えて生きてきたのだと思います。 それなのにどうして穏やかで、思いやりのある人に育ったのでしょう。 柱たちが、屋敷が爆破されている音を聞き、屋敷に向かっている顔を見れば、どんなにお館様がみんなに好かれていたのかがよくわかると思います。 鬼舞辻無惨と同じ血筋だったのだけあり、お館様と無惨の顔はそっくりです。 苗字は違っていますが、無惨が改名している可能性がないわけではないので、きわめて近い血筋ではないかとも考えてしまいます。 年齢的にはとても離れているので、そんなことはないと思いますが。 無惨のために呪われていて、30歳までも生きられないなんて、生まれた時から寿命まで決められている…そう考えると無惨と対峙した時のお館様は、どうしてあんなに平静を保つことができたのだろうかと思ってしまいます。 人生をかけて、それだけのために生きてきたと言っても過言ではない敵とはなしているのです。 憎くてたまらないのではないのでしょうか。 それとも自分の仕掛けた罠に、ようやく自分から飛び込んできた。 あとは 自分の育ててきた可愛い鬼殺隊が、必ず仕留めてくれると気持ちが高揚していたのでしょうか。 本当は、無惨が倒されるところをこの目で見て、倒してくれた隊士たちをねぎらいたかったのだと思います。 もちろん妻や子供も道連れにしたかったはずはありません。 鬼殺隊が、無惨を倒しお館様に報告できますように。 鬼のいない世界が早く来ますように。

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