ボク の 自学 ノート。 NHKスペシャル「ボクの自学ノート」の再放送・動画の見逃し配信【梅田明日佳くん】

ボクの自学ノート(令和元年初日BS1夜8:00放送)と初日の誓い

ボク の 自学 ノート

先週だったろうか、真夜中にブログを書きながらNHKをつけていたら、不意にドキュメンタリーが始まった。 こんな時間に…?と思ったがどうやら再放送らしい。 梅田明日佳くんの物語。 上のページの番組情報を引用する。 リリー・フランキーや最相葉月が称賛する中3男子が書いた作文が密かな話題を呼んでいる。 昨年の「子どもノンフィクション文学賞」で大賞に輝いた北九州市在住の梅田明日佳君による作文だ。 彼は自らテーマを決めて学ぶ「自学」を小3~中3まで人知れず続けた。 梅田くんが通っていた小学校で行われていた宿題のような活動。 どんなことでもいいから、ノートを埋めて先生に提出する。 ある児童は数学のドリルを解き、ある児童は漢字の練習をする中で、梅田くんは新聞を切り抜いて記事に対する感想を書き綴った。 新聞の地域欄には梅田くんにとって身近な話題が掲載されていた。 新聞がとても身近な存在に感じられた梅田くんは毎朝新聞を読むようになり、興味を惹かれた記事を切り抜いて感想を書くようになった。 梅田くんの自学である。 先生に見せて、感想をもらう。 褒められる喜びを知ると、動機付けが深くなっていく。 梅田くんは3年生から6年生まで欠かさず自学ノートをつけた。 中学生になって、学校にノートを提出しなくてもよくなったが、梅田くんは不惑一筋、自学を続けた。 運動が苦手で、口頭でのコミュニケーションが得意ではなかった梅田くんは友達も少なかった。 どうにかこうにか学校に行っている状況だったが、自学だけは好きで、学校終わるとすぐ家に飛んで帰り、自学ノートをつける日々を送った。 中学に上がると、自学ノートを見せる人がいなくなってしまった。 そこで、彼のお母さんのアイデアで市内の文化施設を巡るようになる。 司書さんや、職員の方々に文化施設が新聞記事になった際に書いた自学ノートを見せて、感想をもらうようになった。 自学ノートを見せる対象が学校の先生から、市の職員や街の時計屋さんの社長に変わっていった。 それでも、ノートを見せて、喜んでくれる人がいることが嬉しく、梅田くんは繰り返し繰り返し自学ノートを書いた。 その、足跡。 何を考え、何を感じながら自学ノートを書いたかを綴ったのが、「子どもノンフィクション文学賞」を獲得した作文だった。 久しくテレビなんてじっと観ていなかったのだが、どうも引きつけられてしまった。 梅田くんと彼を取り巻く人たちが、自学ノートの取り組みを褒めて伸ばして、梅田くんの言葉と感性をメキメキと伸ばしていった過程は感動的だった。 一方で、いわゆるちょうどいいコミュニケーションを取るのが苦手な彼がこの先どう育っていくのかといった漠然とした不安と期待が、重低音のように作品を包んでいるように感じた。 誰しも、いずれ社会に出ていかなければならない。 方法は様々あるだろうが、「社会」という形のない大地に放り出されて、企業に帰属したり、学府に帰属したり、特に帰属しなかったりしながら、生きていく。 当然といえば当然なのだが、教育現場は社会に出るまでの準備段階と言える。 他人に囲まれ、基礎教養を叩き込まれる中で、人間関係にも揉まれていく。 リトル社会である学校で練習をして、各々が各々の方法で社会に出る。 今の教育現場の実態を詳しく知らないが、30年前、40年前から比べて、個性を重視するような教育を行っているのではないかなぁと漠然と考えている。 僕が受けた教育もその気があった。 それは、社会の形に準ずるように学校教育の形も変わっていくからであろう。 少子化、高齢化、労働生産人口の減少。 儲からない国になりつつある日本においては、もはや横並びで一生懸命コマとして働く人材の価値は低く、個性と知性でゴリゴリやっていける人材が歓迎される。 梅田くんの取り組みが芽をだしたのも、個性を大切にしようとする周りの人間がいたからだ。 先生が褒めなければ、お母さんが無理やり違うスポーツでもさせていたら、市の職員が誠意を持って対応しなければ、きっと芽は潰えてしまっていた。 では梅田くんの前途がものすごく明るく映っていたかといえばそうではない。 あまりにも実直で、口下手で、学校ではなかなかうまくいかない彼の未来を心配する声も、ドキュメンタリー中に上がっていた。 社会は、「最低限できていなければいけないこと」がとても多いように感じる。 少なくとも僕が生きている社会はそうだ。 最低限、人と話すときは相手の目を見なきゃいけないし、敬語も使えなければいけないし、謙譲語と尊敬語を間違えてはならない。 返事をして、寝癖は整えて、与えられた業務をソツなくこなしながら、効率化を行い、組織の課題を見つけ、潰していく。 五体は満足の方がいいし、五感も満足にないといけない。 これが、最低限である。 最低限に満ちていないとスタートラインにも立てない。 最低限をクリアしてからは加点方式だが、最低限に満ちるまでは原点方式でカウントされる。 そうした社会を眼前にしたとき、最低限に満ちていない部分がありながら、他の部分において圧倒的な能力を有する人間の生きる道は、困難なものとなる。 梅田くんや彼の周りの人たちがに感じていた不安もおそらくそういう類のものではなかったか。 「多様な人材を求めている」と社会は門を開いているクセに、実は、最低限のフィルターの目は細かい。 梅田くんのような…というと語弊があるが、「能力の波が大きい人間」を活かす教育体制と、受け入れる社会。 これを達成するためには先に社会をどうかしなければいけない。 人が長く生きていくのは社会だからだ。 ではどうすればいいかといえば、「最低限できていなければいけないこと」のなかで、「実はできていなくてもいいこと」を洗い出して、少しずつ最低限のフィルターを粗くしていくことではないかと思う。 社会を構成している企業内であったり、企業と企業の関係だったりのなかで、共通の認識として醸成されてきてしまったたくさんのしきたりや文化はなかなか取り払えるものではないだろうが、実際それが原因で悩み、将来の見通しに影が立ち込めている人もいる。 活躍すべき人材なのに、である。 彼のような技能があれば、アカデミックやアートの道も開けていく可能性もある。 だが、狭き門には変わりがない。 何の変哲もない社会人になっていく人がほとんどなのが、今の日本だ。 そうしたとき、社会が有する最低限を見直す必要もあるのだろう。 今後僕が社会のなかでどういったポジションに置かれていくかわからないが、せめて自分の周りは不必要な最低限は取っ払って行きたいなと思う。 最低限を見直す提言をしていく必要があるかもしれませんね。 お後がよろしいようで。 ktaroootnk.

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NHKスペシャルのノート・ボク・大人が話題

ボク の 自学 ノート

先週だったろうか、真夜中にブログを書きながらNHKをつけていたら、不意にドキュメンタリーが始まった。 こんな時間に…?と思ったがどうやら再放送らしい。 梅田明日佳くんの物語。 上のページの番組情報を引用する。 リリー・フランキーや最相葉月が称賛する中3男子が書いた作文が密かな話題を呼んでいる。 昨年の「子どもノンフィクション文学賞」で大賞に輝いた北九州市在住の梅田明日佳君による作文だ。 彼は自らテーマを決めて学ぶ「自学」を小3~中3まで人知れず続けた。 梅田くんが通っていた小学校で行われていた宿題のような活動。 どんなことでもいいから、ノートを埋めて先生に提出する。 ある児童は数学のドリルを解き、ある児童は漢字の練習をする中で、梅田くんは新聞を切り抜いて記事に対する感想を書き綴った。 新聞の地域欄には梅田くんにとって身近な話題が掲載されていた。 新聞がとても身近な存在に感じられた梅田くんは毎朝新聞を読むようになり、興味を惹かれた記事を切り抜いて感想を書くようになった。 梅田くんの自学である。 先生に見せて、感想をもらう。 褒められる喜びを知ると、動機付けが深くなっていく。 梅田くんは3年生から6年生まで欠かさず自学ノートをつけた。 中学生になって、学校にノートを提出しなくてもよくなったが、梅田くんは不惑一筋、自学を続けた。 運動が苦手で、口頭でのコミュニケーションが得意ではなかった梅田くんは友達も少なかった。 どうにかこうにか学校に行っている状況だったが、自学だけは好きで、学校終わるとすぐ家に飛んで帰り、自学ノートをつける日々を送った。 中学に上がると、自学ノートを見せる人がいなくなってしまった。 そこで、彼のお母さんのアイデアで市内の文化施設を巡るようになる。 司書さんや、職員の方々に文化施設が新聞記事になった際に書いた自学ノートを見せて、感想をもらうようになった。 自学ノートを見せる対象が学校の先生から、市の職員や街の時計屋さんの社長に変わっていった。 それでも、ノートを見せて、喜んでくれる人がいることが嬉しく、梅田くんは繰り返し繰り返し自学ノートを書いた。 その、足跡。 何を考え、何を感じながら自学ノートを書いたかを綴ったのが、「子どもノンフィクション文学賞」を獲得した作文だった。 久しくテレビなんてじっと観ていなかったのだが、どうも引きつけられてしまった。 梅田くんと彼を取り巻く人たちが、自学ノートの取り組みを褒めて伸ばして、梅田くんの言葉と感性をメキメキと伸ばしていった過程は感動的だった。 一方で、いわゆるちょうどいいコミュニケーションを取るのが苦手な彼がこの先どう育っていくのかといった漠然とした不安と期待が、重低音のように作品を包んでいるように感じた。 誰しも、いずれ社会に出ていかなければならない。 方法は様々あるだろうが、「社会」という形のない大地に放り出されて、企業に帰属したり、学府に帰属したり、特に帰属しなかったりしながら、生きていく。 当然といえば当然なのだが、教育現場は社会に出るまでの準備段階と言える。 他人に囲まれ、基礎教養を叩き込まれる中で、人間関係にも揉まれていく。 リトル社会である学校で練習をして、各々が各々の方法で社会に出る。 今の教育現場の実態を詳しく知らないが、30年前、40年前から比べて、個性を重視するような教育を行っているのではないかなぁと漠然と考えている。 僕が受けた教育もその気があった。 それは、社会の形に準ずるように学校教育の形も変わっていくからであろう。 少子化、高齢化、労働生産人口の減少。 儲からない国になりつつある日本においては、もはや横並びで一生懸命コマとして働く人材の価値は低く、個性と知性でゴリゴリやっていける人材が歓迎される。 梅田くんの取り組みが芽をだしたのも、個性を大切にしようとする周りの人間がいたからだ。 先生が褒めなければ、お母さんが無理やり違うスポーツでもさせていたら、市の職員が誠意を持って対応しなければ、きっと芽は潰えてしまっていた。 では梅田くんの前途がものすごく明るく映っていたかといえばそうではない。 あまりにも実直で、口下手で、学校ではなかなかうまくいかない彼の未来を心配する声も、ドキュメンタリー中に上がっていた。 社会は、「最低限できていなければいけないこと」がとても多いように感じる。 少なくとも僕が生きている社会はそうだ。 最低限、人と話すときは相手の目を見なきゃいけないし、敬語も使えなければいけないし、謙譲語と尊敬語を間違えてはならない。 返事をして、寝癖は整えて、与えられた業務をソツなくこなしながら、効率化を行い、組織の課題を見つけ、潰していく。 五体は満足の方がいいし、五感も満足にないといけない。 これが、最低限である。 最低限に満ちていないとスタートラインにも立てない。 最低限をクリアしてからは加点方式だが、最低限に満ちるまでは原点方式でカウントされる。 そうした社会を眼前にしたとき、最低限に満ちていない部分がありながら、他の部分において圧倒的な能力を有する人間の生きる道は、困難なものとなる。 梅田くんや彼の周りの人たちがに感じていた不安もおそらくそういう類のものではなかったか。 「多様な人材を求めている」と社会は門を開いているクセに、実は、最低限のフィルターの目は細かい。 梅田くんのような…というと語弊があるが、「能力の波が大きい人間」を活かす教育体制と、受け入れる社会。 これを達成するためには先に社会をどうかしなければいけない。 人が長く生きていくのは社会だからだ。 ではどうすればいいかといえば、「最低限できていなければいけないこと」のなかで、「実はできていなくてもいいこと」を洗い出して、少しずつ最低限のフィルターを粗くしていくことではないかと思う。 社会を構成している企業内であったり、企業と企業の関係だったりのなかで、共通の認識として醸成されてきてしまったたくさんのしきたりや文化はなかなか取り払えるものではないだろうが、実際それが原因で悩み、将来の見通しに影が立ち込めている人もいる。 活躍すべき人材なのに、である。 彼のような技能があれば、アカデミックやアートの道も開けていく可能性もある。 だが、狭き門には変わりがない。 何の変哲もない社会人になっていく人がほとんどなのが、今の日本だ。 そうしたとき、社会が有する最低限を見直す必要もあるのだろう。 今後僕が社会のなかでどういったポジションに置かれていくかわからないが、せめて自分の周りは不必要な最低限は取っ払って行きたいなと思う。 最低限を見直す提言をしていく必要があるかもしれませんね。 お後がよろしいようで。 ktaroootnk.

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ボクの自学ノート(令和元年初日BS1夜8:00放送)と初日の誓い

ボク の 自学 ノート

掲載日 : 2020年1月25日 昨夜、大阪出張中のホテルで、NHKの番組を見ました。 「ボクの自学ノート」という番組です。 とても考えさせられました。 もちろん 「ボク(明日佳くん)」も良かったけれども、家族も、周囲の大人も素晴らしい。 また番組制作者の意図(はじめは賞を総なめにしている少年の話だと思ったら、個の話から、テーマが学校や友達など集団の話、そして社会や仕事などの話に自然に遷移している)が明確かつ考えさせられる構成でした。 どうやらすでにBSスペシャルで放送され、その後反響の大きさから昨年NHKスペシャルで放送されていたとのこと。 なので私が見た回は少なくとも再々放送です。 みなさんも既にご覧になった方も多いと思いますが、感想を書いていきたいと思います。 昨年の「子どもノンフィクション文学賞」大賞作を基に描くドキュメンタリー。 リリー・フランキーやノンフィクション作家の最相葉月が称賛する中3男子の作文が密かな話題を呼んでいる。 昨年の「子どもノンフィクション文学賞」で大賞に輝いた、北九州市在住の梅田明日佳くんの作文だ。 なぜ、彼は「自学」を人知れず続けたのか。 地域の大人との交流を通して成長した7年間の軌跡を彼の「自学ノート」から紐解く。 NHK番組サイトより レッテルはなく等身大の少年が描かれる 番組は毎年賞を受賞し続ける明日佳くんの自宅マンションを訪ねるところから始まります。 「どういう子なんだろう」。 ドアを開ける瞬間、視聴者は思うと思います。 私もそういう気持ちで見始めました。 もちろん毎年『子どもノンフィクション文学賞』に応募し受賞を続けている、自学というノートを何年もつけ続けているという情報だけで、かなり変わった子だろうなと言う予想は付きます。 冒頭のいくつかのカットを観ただけで、「ああ、そういうこと」と思いました。 ピュアな(換言するとやや幼い)瞳、定まらない目線、書き言葉を文字起こししたような喋り(リリー・フランキーさんは「腹話術みたい」と言ったそうです)、カクカクした上半身の動き、ノートを取り出すぎこちなさ、壁一面にあるプラモデルの箱…。 普段特性のある子と接することがとても多いので、そのあたりの仮説は勝手にたててしまう悪い癖がテレビを見ていても出てしまいます。 もちろん全国区の賞を何度も受賞するような少年なので、社会に十二分に適応していると言えますから、レッテルを貼る必要はない。 明日佳くんは等身大の、少し、いや、だいぶ変わった、でも周囲(家族はもちろん、自学ノートの取材の中で知り合った世の中の錚々たる大人たち)に愛され、気にかけられる少年として、描かれていきます。 ただ、番組後半で徐々に、本人や周囲の悩み・生きづらさ、そして学校や社会にむけての問題提起が「そういうこと」に関連しています。 「昔から明日佳みたいな人はいたはず」 徐々に番組は明日佳くんとお母様の内面を語りだします。 また同級生なども含めて、明日佳くんがどう見えているかが描かれていきます。 「人の10倍かかって書いている」「作文や美術はいつも居残り」「部活には入っていない。 ダッシュで帰る」「いつも一人」「クラスメートと話しているところは一回も見たことがない」など周囲とのズレや、学校における集団行動での違和感が語られます。 (なおコメントは私の記憶ベースなので完璧に一致はしていません。 ) なにしろ賞を受賞したことは、同級生はまったく知らない。 気づいていない。 予想だにしていない。 それだけクラスで孤立しているのです。 特に印象的だったのは、 学校で「社会に出るには効率が必要」とアドバイスされ、明日佳くんも「本当にその通りだと思いました」と語っているシーンです。 そうした息子を見ながら母親も「学校で必要とされるのはリーダーシップ、積極性、コミュニケーション…。 明日佳はそういうのが全部できない。 」や、「昔から明日佳みたいな人はいたはず。 そういった人は生きてきた。 今の時代はどうなのか」というシーンも印象的でした。 明日佳くんやご家族にあったら、個性を伸ばそう! で終われる自信はない 「スピード」「コミュニケーション」「効率化」「集団適応」で悩む明日佳くん。 家や学校だけで人生が無事終わるならば、自分も明日佳くんが楽しく生きていけば良いんじゃないか、と言うだけで接することが出来ると思います。 しかし、周囲も「自分が親だったら気になる」という発言がありましたし、お母様自身も途中涙を流して不安や葛藤を話される。 「今のまま育って、充実した人生をおくれればそれで良い。 でも社会がもっと変わって欲しいが、そうはなってくれていない。 また社会が変わったとしても、今のまま育って本当に大丈夫なのか…。 」そういった親としてごく自然な想いが、言葉や表情から溢れていました。 支援者として、親として。 自分はどう言葉をかけるだろうか…。 やはり企業や社会の歯車として動くことが多分に求められる大人世界の厳しさを日々味わっている身としては、自分も学校の先生のように「社会に出るには効率も覚えよう」とアドバイスするのではないか。 答えはないですが、果敢に現実に向かい、純粋にそれを見事に表現する親子に、日々接する様々な利用者・家族を重ねて観ていたと思います。 社内で時々言うのが、「 人を支援するということは本来神にしか出来ないことを、不十分な我々人間がさせていただいていること。 大層な役割を任せていただいていることを肝に銘じ、支援させていただく機会にありがたさを感じながら、働いてほしい」というものなのですが、このドキュメンタリーを観て、改めて心に刻みこみました。 「草枕」の読後感と、ドキュメンタリーの視聴後の印象が似ていたのだと思います。 「草枕」は、芸術論としても、西洋と東洋の対比としても、読めるらしいですが、自分としては「集団 対 個人」や「効率 対 あるがまま」の近代と現代の間で個人が社会と葛藤する様子を書いているのではないかと思っています。 近代国家。 民族主義。 イデオロギー。 均一性。 そういったキーワードが揺れ動く中の漱石も感じたことを、このドキュメンタリーで語る明日佳くんも感じているし、それに共感しているのが自分なのだろうなぁということですね。 ちなみに、夏目漱石「」のラストの部分を書き出すとこんな感じです。 汽車の見える所を現実世界と云う。 汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。 何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。 情容赦はない。 詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸氣の恩沢に浴さねばならぬ。 人は汽車へ乗ると云う。 余は積み込まれると云う。 人は汽車で行くと云う。 余は運搬されると云う。 汽車ほど個性を軽蔑したものはない。 文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。 一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。 同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。 何坪何合のうちで自由を擅(ほしいまま)にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。 憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。 文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽(かんせい)の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。 この平和は真の平和ではない。 動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。 気をつけねばあぶないと思う。 現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。 おさき真闇(まっくら)に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。 難しいですからね…。 しかし、今も迷った時によく聞くピアニストのグレン・グールドが日々持ち歩いていた心の書だったのが「草枕」と聞いて、初めて読んでその独特の雰囲気に惹かれたのです。 そしてグールドは下記の記事のように特性持ちと考えられると思います。 なんだか、よくわからないつながりだと思いますが… まとめると、 自分として、このドキュメンタリーは、支援者としての仕事の面白さや難しさを再確認したり、親としての立場に共感したり、これまで惹かれてきた漱石やグールドへの親近感を思い出したり、様々な次元のものが磁石のようにくっついて感じられた大変良いドキュメンタリーでした。 みなさんもぜひから観てください。 (2012年1月2日)から 文責: 鈴木慶太 ㈱Kaien代表取締役 長男の診断を機に発達障害に特化した就労支援企業Kaienを2009年に起業。 、、 の立ち上げを通じて、これまで1,000人以上の発達障害の人たちの就職支援に現場で携わる。 日本精神神経学会・日本LD学会等への登壇や『月刊精神科』、『臨床心理学』、『労働の科学』等の専門誌への寄稿多数。 文科省の第1・2回障害のある学生の修学支援に関する検討会委員。 著書に『親子で理解する発達障害 進学・就労準備のススメ』(河出書房新社)、『発達障害の子のためのハローワーク』(合同出版)、『知ってラクになる! 発達障害の悩みにこたえる本』(大和書房)。 東京大学経済学部卒・ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院修了(MBA)。 星槎大学共生科学部 特任教授。

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