レイシズム ファシズム。 「レイシズムとファシズム」

ファシズムとは?意味を簡単にわかりやすく解説

レイシズム ファシズム

もくじ• 石垣のり子参院議員が高橋洋一はファシズム&レイシスト発言で炎上 石垣のり子参院議員がTwitterで高橋洋一教授をファシズム&レイシスト呼ばわりしてしまったことが問題になり炎上しています。 馬淵澄夫さん山本太郎さん主催の消費税減税研究会。 初回の講師は、高橋洋一氏とのこと。 これから始まるという時に大変残念ですが、当初言明したように私は、レイシズムとファシズムには一切加担しません。 よって、レイシズムとファシズムに加担するような人物を講師に呼ぶ研究会には参加できません。 — 石垣のりこ norinotes 石垣のり子参院議員はご存知の通り現役の国会議員であり、 高橋洋一さんはもともとは財務省で官僚を務めていましたが今は経済学者で民間人となっています。 議員の発言は、院内での発言については 免責特権が適用されますが、Twitterはもちろんその内には含まれません。 免責特権(めんせきとっけん)とは、憲法上、国会議員は、議院で行った演説・討論・表決について、院外で責任を問われないという特権。 院外免責特権ともいう。 wikipedia. 貴党所属の石垣のりこ参院議員はツイッターで私をファシスト、レイシスト呼ばわりしています。 貴党代表としての見解を教えて下さい。 — 高橋洋一(嘉悦大) YoichiTakahashi 高橋洋一さんは、この一件について石垣のり子参院議員の所属している立憲民主党の代表である枝野幸男代表のTwitterにリプライを送信し見解を要求しています。 今後の流れによっては、 石垣のり子参院議員にある疑いもあるとの見方も多く見られます。 これは名誉毀損事案 立憲民主ならマスコミ全力擁護で何を言ってもいいと言うおかしな風潮がある — ほんやら べんさん bensan23 先ほども触れましたが、Twitterでの発言は院内の発言ではないため免責特権は適用されないはず。 大事になれば、石垣のり子参院議員は名誉毀損で訴えられる可能性も出てきています。 石垣のり子参院議員がどうなるかの鍵となっているのは、 高橋洋一さんが要求している枝野幸男代表の返答次第でしょう。 いわれのない誹謗中傷を受けた高橋洋一さんはかなりご立腹。 誠意ある対応が求められるでしょう。

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5分でわかるファシズム!定義や日本・ドイツ・イタリアをわかりやすく解説

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狭義には,資本主義が全般的危機に陥った第1次世界大戦以降ので,労働者階級の革命運動の高揚に対抗して登場し,議会制民主主義を否定して反革命独裁を志向したベニト・に率いられたの運動,体制,およびそのをいう。 「ファシズム」の語は「」を味するイタリア語 が,党の母体である Fasci di Combattimentoに使用されたことに由来するが,この語はさらに,古代ローマの執政官の権標であった儀式用具 (斧を中心に木の棒をねたもの)にまでさかのぼるという。 一般概念としては,それ以後の類似の現象をさすが,近年,多義的に用いられている。 政党,,中の反動分子らによる政治独裁を目指し,,を排撃し,,,ナショナリズムの高唱などをとする。 具体的には 1920年代から 1930年代にかけて登場したドイツのアドルフ・,スペインのフランシスコ・らによって指導された主義体制の運動および体制があげられる。 このように当初はムッソリーニの運動だけをさす固有名詞であったファシズムは,やがて 1930年代に入ってヨーロッパをはじめ各国にそれと類似の運動が勃興するに及び,これらを一般的に総称する名称に転化した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 狭義にはイタリアでの指導下にあったファシスト党の,広義には20世紀の的・的の運動理念,支配形態。 イタリア語ではファシズモfascismo。 は古代ローマの儀式用の束桿を意味するfasces,転じて〈結束〉〈団体〉の意。 第1次世界大戦後の資本主義の一般的危機と,それから起きた社会的・経済的や社会主義革命の危機の切迫感から,その存立基盤に不安を感じた中間層が,カリスマ的指導者に率いられて起こした。 議会政治や言論・出版・結社等の自由をすべて否定し,反革命運動を推進した。 またすべての悪の根元は社会主義・共産主義・ユダヤ人等にあるとし,偏狭なやを唱え,しばしば対外侵略政策をとった。 ドイツのナチズム()や日本のもその例である。 ただし,ファシズムを最広義に,〈共同体〉(その大小,出自,体制の相違を問わない)統合の極限的な原理ないし手法と解すれば,これを歴史的事象として清算することはできず,再出現の可能性は常にあると考えなければならない。 その政治的・経済的・社会的側面のみならず,思想や文化にわたる機制の解明が必要とされるゆえんである。 イタリアでは,第1次大戦直後の混乱のなかで,1922年10月31日に早くもムッソリーニ内閣が成立したが,その後29年に始まるを背景に,33年1月30日ドイツでは内閣が生まれた。 20年代から30年代にかけてヨーロッパの広範なにこのムッソリーニの〈ファシズム〉やヒトラーの〈ナチズム〉に類似した政治的急進主義の動きが芽生えていたが,第2次大戦のにおけるドイツの軍事的にも支えられて,42年夏には,この種の動きが全ヨーロッパを支配してしまうようにさえみえた。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 第一次世界大戦直後の1920年代初頭から第二次大戦終結時点の1945年までの約4半世紀間にわたり、世界の多くの地域に一時期出現した、まったく新しいタイプの強権的、独裁的、非民主的な性格をもった政治運動、政治・経済・社会思想、の総称。 ファシズムは、イタリア、ドイツ、日本をはじめとして、スペイン、オーストリア、ポルトガル、ルーマニア、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、ノルウェー、スウェーデン、イギリスなどの西・東欧諸国、またアルゼンチン、チリ、ブラジルなどの南米諸国においても発生した。 これらの国々のうちで、とくにイタリア、ドイツ、日本の3国がファシズム国家の典型とされるのは、一つには、その地において強力なファシズム政権が確立されたこと、さらにより重要なことは、これら日独伊3国が、第二次大戦の一方の当事国として、イギリス、アメリカ、フランス、旧ソ連などのいわゆる民主主義陣営を敵に回して、それらの国々と戦ったからである。 では、この世界史上まったく新しいタイプの運動・思想・体制をなぜファシズムとよぶのか。 それは、このような運動・思想が最初にイタリアのムッソリーニによって提唱され、かつイタリアにおいてファシズム体制が確立されたからである。 ファッショfascioという語は、イタリア語の「束」を意味し、そこから転じて、「団結」「結束」を表す語として用いられるようになった。 第一次大戦中、参戦派のサンジカリストたちが「革命的参戦行動ファッシ」という名称の組織をつくり、戦後、ムッソリーニがこの組織を継承して「戦闘ファッシ」とし、1921年には「国民ファシスタ党」という政党に改組した。 これ以後、ファシズムということばが、独裁的・非議会主義的・反共主義的な運動・思想・体制の総称として広く一般に用いられるようになった。 [田中 浩] 発生因ファシズムが第一次大戦後のイタリアやドイツにおいて発生した理由は二つ考えられる。 一つは、大戦後の未曽有 みぞう の経済的危機とそれによる政治的危機の出現という問題である。 もう一つは、大戦後、世界史上初めてロシアの地に社会主義国家が誕生し、各国に脅威を与えたことである。 イギリスやフランスよりも2、3世紀遅れて近代国家を形成したイタリアやドイツは、植民地分割競争に乗りおくれたため当然にその経済的基盤が弱く、大戦の影響をまともに受け、深刻な失業、貧困、インフレ問題などは、国家的存立はもとより、中産階級以下の人々にとって深刻な死活問題ともなった。 ところで、資本主義経済の危機を解決する方法としては、ファシズムの道のほかに社会主義への道があった。 事実、そのようなものとしてロシアにおいてはレーニンの指導する社会主義政権が樹立された。 このことは、各国の労働者階級を勇気づけ、世界的に社会主義運動や労働運動が高揚する。 しかし、ファシズム運動の指導者たちは、階級闘争の激化は国家的破滅につながるものとしてこれを厳しく弾圧した。 ファシズムが民族主義的性格を色濃くもち、反資本主義、反議会主義、反民主主義を唱えるとともに、反社会主義、反共産主義を掲げて、一党独裁による極端な国家主義 ステイティズム を強調したのは、ひとえにソ連社会主義の自国への影響を恐れたためであったといえよう。 このようにみると、ファシズムと社会主義は、19世紀末以降とくに顕在化した資本主義の矛盾とその全般的危機に対する対応策として出現したものであることがわかる。 しかし、この両者はまったく違った道を歩み、社会主義国家は民主主義社会の建設を目ざし、ファシズム国家は、個人の自由や民主主義を否定する全体主義的な国家体制の確立を追求し、そのことは帝国主義的侵略主義と結び付き、結局、この両者は第二次大戦において対決することになる。 [田中 浩] ファシズムの性格ドイツでは、ファシズムという語よりもナチズムという語が用いられ、日本では天皇制ファシズムあるいは全体主義という語が用いられたように、ひと口にファシズムといっても、3国におけるファシズムの内容はかならずしも同じではないが、共通する性格について述べる。 (1)国家による経済の統制・監督 ファシズム運動は、そもそも自由主義的な資本主義経済の危機を契機に発生したこともあって、ファシズムにおいては国家による経済の統制・監督という思想が強い。 ムッソリーニは、このような干渉主義を混合経済とよび、そのような政治・経済体制を資本と労働の協同体方式によって建設することに全力を注いでいる。 またドイツの政治学者カール・シュミットは、ファシズム国家を全体主義国家totalen Staatと規定し、この国家の特質は「国家が社会(経済)を呑 の み尽くす」点で全体的であると述べている。 もっとも19世紀末以来、資本主義国家においても福祉国家への転換が図られ、国家や政府の指導・監督がしだいに強化されつつあったし、社会主義国家においては計画経済の下に経済は完全にコントロールされている。 この点については、三つの政治・経済体制は一見似通ってみえる。 しかし、ファシズム国家の場合には、市民的自由や労働者の権利はまったく否定され、個人の経済活動も国家利益に従属させられているという点で、資本主義国家や社会主義国家の場合とその様相を大きく異にしているといえる。 (2)狂信的民族主義 ファシズムの第二の特質は、その偏狭な狂信的民族主義にある。 ムッソリーニは、ファシスタ党が政権をとる「ローマへの進軍」を前にして、民族の概念がマルクス主義的な階級の概念よりも優位しているとの演説を行った。 彼によれば、国家とは民族が政治制度において具現化されたものであった。 彼は、ファシズム国家は「下から形成・組織された国家」であると述べ、国民に対して国家への民族的統一を呼びかけ、階級闘争による国家分裂の行動を否定している。 他方、フランス革命当時にあってもなお300を超える領邦国家に分裂していたドイツ人にとっては、イギリスやフランスのような近代的統一国家の形成は、いわば民族の悲願ともいうべきものであった。 統一国家=帝国 ライヒ Reichと民族 フォルク Volkという概念がドイツ民族統一のための長年にわたる合いことばとなったのはこの理由による。 ここから「ゲルマン民族の優越性」「血の純潔」「血と大地」「反ユダヤ主義」というドイツ特有の民族概念が生まれた。 ドイツ人によれば、ユダヤ人は世界中の国々に潜入して資本主義的利益を獲得するために狂奔し、他方では、ユダヤ的マルクス主義は、インターナショナルな楽園をこの地上に創出すると称して民族の統一を妨げている、というわけである。 ナチ党がユダヤ人を大量虐殺し、またユダヤ人マルクスの唱えた社会主義や共産主義を憎悪しこれを厳しく弾圧したのは、ドイツ人特有の民族概念を知ることによって初めて解明できる。 この点、日本における民族概念の政治的機能は、イタリアやドイツの場合と異なる。 日本では、国家は有史以来、大和 やまと 民族というほとんど単一の民族で構成され、その民族が天皇を頂点として統合されてきたと考えられていた。 日本において、「下からの革命」という運動が欠如しているのはそのためである。 そして、こうした民族概念は、明治維新以後の「富国強兵策」の時代から十五年戦争期にかけて、天孫民族による世界統治こそ神聖至上なりとする「八紘一宇 はっこういちう 」の思想にまで高められ、それは国民意志を統合する最重要な精神的契機となり、明治以来のアジア侵略や帝国主義戦争を正当化する思想となったのである。 もっとも民族的使命感を強調する思想は、15、16世紀以来、帝国主義的植民地略奪を遂行しつつあった西欧人の間でも、「白人の責務」「キリスト教国民による未開人の教化」という形で唱えられたが、ファシズムの場合には、偏狭な民族主義が極端な形にまで進んだものといえよう。 (3)反自由主義・反議会主義・反マルクス主義 ファシズムは社会主義と異なり、資本主義そのものは否定しないが、その政治思想や政治制度には反対する。 そのことが一見ファシズム国家は反資本主義的性格をもつと思われがちだが、ファシズムの真の敵はマルクス主義、社会主義国家である。 ではなぜ、ファシズムは反自由主義、反議会主義の立場をとるのか。 それは、シュミットによれば、議会制民主主義は、本来敵であるべき社会党やとくに共産党の存在を許しているためだ、という。 また20世紀に入って労働者階級の力が強大となったが、敵を敵として扱わず、討論相手にしているような議会制民主主義のやり方では、とうていこの強大な新しい社会階級に敵対できない、したがって、いまや議会主義ではなく一党独裁によって階級敵に対抗し、これを絶滅しなければならない、というわけである。 こうして、ファシズムは、いずれの国においても社会主義運動や階級闘争を厳しく弾圧したが、そのことは、日本の「治安警察法」や「治安維持法」の適用にもみられるように、市民的自由や議会制民主主義などの一般的民主主義までも全面的に否定することとなり、ここに、全体主義的なファシズム国家体制が確立されたのである。 [田中 浩] ファシズムの成立と形態(1)イタリアのファシズム ファシズム国家という点でもっとも典型的なのはイタリアの場合であろう。 なぜなら、そこでは、資本主義の危機を乗り越えるために、国民のナショナリズムに訴えて大衆的支持を得ることを目ざし、政治と経済の緊密な協同・結合を図ってファシズム体制をつくりあげようと試みているからである。 この協同体では、頂点に「協同体全国協議会」があり、その下部に22の協同体が設けられている。 各協同体はそれぞれの生産部門の経済活動を監督・指導する。 「全国協議会」は、生産の私的イニシアティブは尊重しつつ、それが協同体において全経済の利益、国家の利益と調和するように図る権限を有する。 この協同体国家への改編は34年2月に協同体に立法権が与えられることによって完成した。 こうしてムッソリーニは、資本主義の矛盾とコミュニズムからの脅威を克服したと称する強大な国家建設と世界進出の夢を結合させることによって、33年1月に政権を獲得したドイツ・ナチズムと連帯を強めつつ、エチオピア侵略、国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結を経て、枢軸国の一員として第二次大戦に参戦するのである。 (2)ドイツのナチズム ナチ党は、1923年のミュンヘンでの一揆 いっき に失敗して以後、議席拡大による合法的な権力獲得の道を追求し、敗戦によって失われたかつてのドイツ民族の栄光を回復するという旗印を掲げ、大量の失業軍人や不安定な状況に置かれていた広範な中・小生産者層を結集し、また「国民社会主義ドイツ労働者党」という紛らわしい党名によって労働者階級の一部をも引き付けることに成功した。 29年に始まった世界大恐慌の出現は、ナチ党の党勢拡大に弾みをつけた。 32年の選挙ではついに第一党の地位についたが、その狂信的政治信条を恐れた支配層は、ヒトラーに政権を移譲することをためらった。 しかし、30年代の深刻な政治的・経済的危機を解決する能力を失った支配層は、コミュニズムの脅威よりもファシズムをよしとして、ついに33年1月にヒトラーに政権を渡した。 この時点では支配層は、ナチ党をコントロールできるものと楽観視していたようである。 しかし、首相ヒトラーは、ワイマール憲法第48条に規定された大統領の非常大権を有効に活用して組合運動や政党活動を抑圧し、33年3月24日には「民族と帝国の危難排除のための法律」を制定してたちまちいっさいの権限をその手中に収めた。 この法律によりワイマール共和国は崩壊し、以後、ヒトラーは、「歓呼」と「喝采 かっさい 」という方式によって彼の命令と意志を無条件に支持する全体主義的独裁体制を確立し、第二次大戦への道を目ざして戦争準備を始めることになる。 (3)日本のファシズム 日本のファシズムは「天皇制ファシズム」とよばれるように、明治憲法体制の下で長年かけてつくりあげてきた国民の天皇信仰を背景に、軍部・官僚による「上から」の強権的国家体制を形成して十五年戦争を遂行したという点で、「下から」の革命を目ざして国民を組織し、ファシズム政権を獲得したイタリアやドイツの場合と様相を異にする。 この点をめぐって日本はファシズム国家ではなかったと主張する者もいる。 しかし、この時期の日本でも国家による経済の監督・統制の強化、「八紘一宇」の観念による侵略的民族主義の高唱、反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義などの思想教化、さらには国内的には国家総動員法の制定(1938)、大政翼賛会・大日本産業報国会の結成(1940)などを通じて機構的に天皇制ファシズム体制が確立され、国際的には満州侵略(1931)、国際連盟からの脱退(1933)、日独伊三国同盟の締結(1940)などを断行した経過をみると、日本がファシズム国家であったことは間違いない。 (4)その他のファッショ体制 1920、30年代には、主要3国以外にも、ファシスト政権やファシズム運動が各国で相次いで出現している。 たとえば1920年にはハンガリーにホルティ政権、28年にはポーランドにピウスツキ政権、33年にはポルトガルにサラザール政権、34年にはオーストリアにドルフス政権、36年にはスペインにフランコ政権、40年にはルーマニアにアントネスク政権、また第二次大戦中には、チリ、ブラジル、アルゼンチンなどにファシスト政権が誕生した。 そのほか、政権獲得までには至らなかったが、イギリスのモズリー一派の「イギリス・ファシスト同盟」、アメリカの「アメリカ・ナチス党」、フランスのモーラスらの「アクシオン・フランセーズ」などのファシズム運動が、またカナダ、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィンランド、インドなどでもファシズム運動が出現したのである。 こうした政権や運動は、第二次大戦後ほとんどその姿を消したが、フランコ政権のように戦後に至ってもなおしばらく生き残った政権もあった。 [田中 浩] 戦後のファシズム問題第二次大戦での日独伊3国の敗北によりファシズム国家はひとまずこの地上から姿を消した。 しかし、ファシズムの運動や思想が民主主義への挑戦・否定を含むものであったということからすれば、今日においてファシズム再現の危険性がまったくなくなったとはいえない。 戦後はファシズムという用語よりも全体主義ということばが用いられているようだが、たとえば1950年代前半における米ソの対立激化のなかで、アメリカはスターリン体制を全体主義として非難し、他方旧ソ連は、当時、思想・信条の自由を抑圧していたアメリカのマッカーシズムを全体主義として攻撃した。 第二次大戦が、人権と自由の観念が希薄であり、民主的な政治制度の確立がきわめて不十分であった日独伊3国によって引き起こされたことを考えれば、それは、今日の時点においてファシズムの再現を防ぐ方法は何かをわれわれに教えているといえないだろうか。 第一次世界大戦後のイタリアのファシスト党の運動,ドイツのナチズム,日本の軍国主義など,後進資本主義国でを握ったが,アメリカやイギリス,フランスなどでも一定のを得ていた。 世界恐慌などに伴う資本主義の危機に乗じて国家主義・反資本主義・・反自由主義そして議会制民主主義の否定を唱え,小市民・中間層をひきつけてを握り,労働者の革命化を抑圧して基本的も否定,軍事独裁的な反革命体制をつくった。 また,国民に排外主義をあおり,外には露骨なを遂行した。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について の解説 20世紀のの段階に現れた特殊な全体主義的思想・運動・体制 ムッソリーニが1921年ファシスタ党を組織し発展させて,同様な傾向のものを,第二次世界大戦におけるドイツ・イタリア・日本がファシズムのとされた。 日本ではドイツ・イタリアのような下からの大衆運動というがとれず,軍部・官僚などの国家機構によって推進された点から,「上からのファシズム」とされている。 本来,権力行使機関であるの国家組織がそのまま転用されて,新たな政治使命を付与されたもので,その国家機構を支えているものが天皇制であり,政治の主要部を占めたのが軍部であった。 軍部による対外侵略がに先行し,いわゆるファシズム体制は'40年のので成立したと考えられる。 出典 旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について 世界大百科事典 内のファシズム の言及 【チャップリンの独裁者】より …サウンド版の《モダン・タイムス》 1936 に続くチャールズ・の最初のトーキー映画。 チャップリンの4日後に同じ貧困と無名のうちに生まれ,チャップリンとはいわば正反対の方向に進んで世界制覇の野望に燃えたヒトラーとそのファシズムに対して,チャップリンが〈たった1人の戦争〉をいどんだ作品で,〈時代の歴史〉に対するもっとも痛烈な風刺喜劇として評価されている。 そもそもの着想はイギリスのプロデューサー,アレクサンター・によるもので,その内容が表ざたになると,駐英ドイツ大使の抗議,ヒトラーとゲッベルスからの直接的な圧力をはじめ脅迫状や製作中止勧告が相次いだが,チャップリンは独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の二役をみごとに演じて,誇大妄想狂の〈独裁者〉の内面をあばいてみせた。 … 【ドイツ零年】より …1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《》 1959 は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。 【柏倉 昌美】。

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ファシズムとはなんですか?また社会主義、共産主義、全体主...

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イタリアのベニート・ムッソリーニが率いた「国家ファシスト党」が提唱した政治姿勢や、1922年から1943年までに敷いた政治体制の総称である「ファシズム」。 広い意味では、ドイツの全体主義や中国の共産主義など、よく似た思想や体制も含める場合があります。 しかしファシズムに対する見方は専門家の間で見解が分かれていて、民主主義の立場では、ファシズムを反自由主義・反民主主義で「全体主義」の一部ととらえます。 共産主義者は、反社会主義の労働者を支配するための「帝国主義」だと批判しています。 一方で、ファシズムを「共産主義」の一種とする人々もいるのです。 一般的には、国や個人に関するさまざまな意思決定が、少数の個人や限られた組織に独占される状態のことだと受け止められています。 第一次世界大戦中に、イタリアの政治家などによって提唱されたファシズム。 「極右」ともいわれますが、実際は右翼と左翼の両方の影響を受けています。 当時は資本主義の発達により、経営者と労働者の対立が深まっていました。 同時に共産主義が急速に広まって各地で激しいストライキが起こり、各国の国民感情は不安定にな状態になっていきます。 また帝国主義の動揺によって、ヨーロッパ各地で民族意識が高まり、国家や民族として統一感を求める動きが出てくるのです。 さらに1914年に起きた第一次世界大戦では、近代兵器を使った凄惨な殺戮がおこなわれ、多くの人々の心を深く傷つけました。 その結果、各国の国民感情は不安定な状態になっていったのです。 こうしたなかで、国家主義と共産主義の一部分を融合したファシズムが台頭することになります。 日本では、大正時代に慣習化した政友会と民政党の二大政党制が弱体化していきました。 そして急速に社会主義・共産主義が浸透し、しだいに主流の考え方となっていくのです。 また軍部は、大日本帝国憲法に記載された天皇陛下の統帥権を転用し、自分たちの権利拡大に努めました。 1932年の五・一五事件や1936年の二・二六事件を経て、ついに政党政治は形骸化し、軍人たちが政治で大きな発言力を獲得。 また1937年に就任した近衛文麿(このえふみまろ)首相は、すべての国政政党をさ解散せ、ファシズムに似た政策を推し進めていきました。 イタリアのファシズム 当初の運動は、イタリア北部で約1000名のメンバーを持つ小規模のものでした。 しかし第一次世界大戦が勃発すると、ファシストはイタリアの参戦を支持したうえで、当時急速に広まっていた国際共産主義に反対し、軍国主義を推奨していきます。 1920年ごろに工業労働者の過激なストライキ活動が頂点に達すると、ムッソリーニが率いるファシストは、経営者と手を結んで反社会主義運動をおこない、労働者や小作人を攻撃しました。 その結果、彼らは徐々に伝統的なイタリアの保守主義に適応していったとみなされ、ファシスト運動のメンバーは1921年までには約25万名に増加。 そして正式に「ファシスト党」と名乗るようになるのです。 1922年になると、ファシストの民兵組織は暴力的な方法でイタリアの諸都市を制圧し、国内は内乱状態となりました。 国王エマヌエーレ3世はローマでの流血を恐れ、ムッソリーニを首相に指名します。 するとムッソリーニは、内閣を自身の支持者で固め、権力を強化していきました。 さらに法律を改正して自分たちに有利な状況を作り、1924年の選挙で多数の議席を獲得します。 そして1925年1月、ムッソリーニは彼自身をイタリアの独裁者と宣言しました。 その後ファシズムはローマ教皇の支持を取り付け、地方への影響力も固めていきます。 ドイツのファシズム 1929年に発生した世界恐慌により、荒廃した人々の心は徐々にファシズムに影響されていきます。 とりわけドイツは、第一次世界大戦の戦勝国から莫大な賠償金が課せられ、国内の景気は最悪の状態。 多くの国民が生活に絶望し、貧困と重税にあえいでいました。 その現状を打破しようと、当時無名だったアドルフ・ヒトラーが、突如政治家として名乗りを上げます。 強烈な演説手法で庶民の不満を代弁し、ズタズタになった国民たちのプライドを鼓舞して支持を拡大していきました。 その結果、彼が率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は、民主的な選挙によって急速に支持を伸ばすことになります。 ヒトラーは第一党の首班として首相に就任し、1933年から1945年にかけて次々と法律を改正して、自分たちに有利な政治体制を作りました。 そして1934年、ついにナチ党の一党独裁体制が成立します。 小説家の村上龍が手掛けた本作。 舞台となるのは、世界恐慌を迎えて危機となった日本です。 鈴原冬二を首班とする政治結社「狩猟社」のもとに、日本を代表する学者・官僚・テロリストらが結集。 冬二はストライキをおこない、巧みな演説を駆使して人々の心をつかんでいきます。 果たして群衆の期待に応えることができるのか?ファシストと呼ばれる彼らの動きをとおして、さまざまな社会問題を浮き彫りにしていきます。 大国による世界支配、弱肉強食を肯定する自己責任論、格差社会の悪化、右翼・左翼への2極化など、現代にも通じる視点がふんだんに盛り込まれている一冊です。 世界を巻き込み、混乱の渦に巻き込んだファシズム。 その意味は非常に分かりにくく、漠然としたイメージしか有りません。 しかしよく調べてみると、当時の時代背景や社会とのつながりが見えてきます。

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