毛利 庭園 生誕 の 地。 毛利氏(もうりうじ)とは

2020年 毛利庭園へ行く前に!見どころをチェック

毛利 庭園 生誕 の 地

毛利氏ゆかりの地を訪ねる 博物館を出て、現在の厚木市内に残る毛利庄と毛利季光の跡をたどってみる。 鎌倉時代でいえば下毛利庄と推定されるあたりから、毛利庄の中心地であり季光屋敷があったとされる光福寺まで移動し、現地を巡って情報がないか調べてみよう。 訪ねた毛利氏ゆかりの地の位置関係は以下の地図の場所になる。 今回訪ねた場所。 毛利台は、現在は住宅地。 毛利庄の中でも南側で、「下毛利」がこのあたりとされる。 毛利台入口のバス停 近くには、南毛利と書いて「なんもうり」と読むスポーツセンターがある 南毛利から少し北へ行くと、下古沢という土地に、毛利氏発祥の地の石碑がある。 毛利季光屋敷跡と記されているが、現在はもう少し北の飯山だったとも推定されている。 毛利氏発祥の地の石碑 石碑から北上し、季光に匿われた隆寛を開基とする飯山の光福寺を訪ねてみる。 なお、隆寛は浄土宗の僧侶だが、現在の光福寺は浄土真宗となっている。 江戸時代の地誌である『新編武蔵国風土記稿』でも、飯山村の「弥陀堂」と「光福寺」の項に、隆寛と毛利季光のゆかりが記されている。 それによると、弥陀堂は隆寛が住んだという由来から隆寛堂とも呼ばれていたこと、光福寺は開山が隆寛であることとその経緯などが記され、江戸時代にも飯山で隆寛の話が知られていたことがわかる。 現在、弥陀堂(隆寛堂)は廃寺となって跡も無い。 光福寺では、滅して800年もの時を経た隆寛が、今でも静かに眠っている。 『新編相模国風土記稿』の一部() 隆寛は貴族の生まれで、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で出家した天台宗の僧侶だったが、やがて浄土宗の開祖となる法然による専修念仏の教えを信仰するようになる。 法然没後は、浄土宗の有力者として京で活動していた。 そんな隆寛が、なぜ関東へ来たのか? 現代では鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の一つである浄土宗は、法然の存命中から、天台宗など古くからある宗派からの圧力があった。 法然死後の1227(嘉禄3)年、浄土宗で「嘉禄の法難(かろくのほうなん)」と呼ばれる弾圧が起こり、他宗からの働きかけを受けた朝廷の命で、隆寛は奥州(東北地方)へ流罪とされてしまう。 この護送を担当したのが、毛利季光だった。 京を発った後、鎌倉に着いた隆寛は、流罪の身ながら丁重に扱われたという。 実は、季光の父である大江広元は法然を信奉していた人で、季光も念仏の教えを信じる人だった。 さらに、当時は鎌倉幕府でもその教えに理解があったのだ。 しかし、隆寛の配流先は、鎌倉よりさらに遠く寒さも厳しい北の地。 この時80歳という老齢の隆寛を案じた季光は、隆寛を自分の住所である飯山に匿い、代わりに弟子の実成房(じつじょうぼう)が配流先へ行った。 『隆寛律師相模飯山にて往生の図』() 隆寛は京を発ってから約1ヶ月後、鎌倉を出て季光屋敷のある飯山へ移り、そこで庵を結んで住む。 が、残念ながら、その4ヶ月後に病で亡くなってしまう。 それにしても、罪人である隆寛の滞在を、京の朝廷はともかく、鎌倉幕府が知らなかったとは考えづらい。 あえて幕府がそれを見過ごしたとすれば、季光はそれほどまでに力を持つ人物だったということだろう。 さらにいえば、密かに匿うには、現地の人々も多くの協力をしたはずだ。 老齢で長旅を強いられた隆寛の身を案じる季光の信仰心や情が、この地の人々にも汲まれていたのかもしれない。 取材を終えて 毛利氏ゆかりの地は、神奈川県厚木市にかつてあった「毛利庄」。 毛利氏は、この地を本拠とする鎌倉時代の武士である季光が、毛利を名乗ったことが始まりとされている。 神奈川にいた毛利氏に関する史跡や遺物は現在ほとんど残っていないが、地名や寺に毛利氏発祥の毛利季光や、その名字の地となった毛利庄が存在した痕跡を見ることができた。 毛利庄は、毛利季光の父である大江広元の代から領地として関わりがあり、京から罪人として送られた高僧を匿ったという季光の人情味あるエピソードの地でもあった。 ちなみに、毛利季光の父である大江広元は、2022年の大河ドラマに決定した北条義時が主役のタイトル『鎌倉殿の13人』で、この13人の1人とも予想されている。 確実に舞台となるだろう鎌倉の他に、厚木の毛利庄が登場する可能性も? と期待したい。 -終わり- 取材協力 あつぎ郷土博物館 池谷山光福寺 参考資料 『厚木市史』中世資料編・中世通史編.

次の

自然と歴史を満喫!デートに人気「毛利庭園」の魅力と楽しみ方

毛利 庭園 生誕 の 地

鎌倉時代,の子季光に始る中国地方の。 広元が相模国毛利荘をあてがわれ,その子季光が跡を,その名を取って毛利氏と称した。 承久の変後,季光は国地頭職を得て相伝され,南北朝時代以降ここを拠点としてを伸ばした。 大永3 1523 年元就が家督を継いで,初め尼子氏,のち大内氏に属し,が家宰陶 すえ 晴賢に殺されると,天文 24 55 年安芸厳島に襲撃して晴賢を自殺させ,のち,の両国をも支配し,安芸城を拠点にへと成長,所領は中国地方全域に及んだ。 孫の輝元はに属し,の一人,広島城を築き,安芸,周防 120万石余を領した。 のでは西軍のとなったが,敗れて周防,長門2ヵ国 36万 9000石に減封された。 さらに輝元は慶長9 1604 年阿武郡の城に,代々居城をここに定め長州藩を編成。 ,藩主敬のとき周防山口にを設けてここに移った。 明治にいたり。 一族は長府,,,右田,清末,吉敷,阿川,大野などにを形成した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 鎌倉幕府政所別当 まんどころべっとう 、大江広元 おおえのひろもと の四男季光 すえみつ が、相模国 さがみのくに 毛利荘 もりのしょう (神奈川県厚木市)を領し毛利姓を称したのに始まる。 中世の読みは「もり」。 季光は、1247年(宝治1)三浦泰村 みうらやすむら の乱(宝治合戦 ほうじかっせん )にくみして3人の子息とともに戦死した。 しかし、越後国 えちごのくに 佐橋荘 さばしのしょう (新潟県柏崎 かしわざき 市)に居住し、同荘と安芸国 あきのくに 吉田荘 よしだのしょう (広島県安芸高田 たかた 市吉田町)を所領とした四男経光 つねみつ は、この乱に関与せず、その子孫は越後と安芸に分かれて存続した。 越後毛利氏は、経光の嫡子基親 もとちか に始まるが、その系譜は諸説あり不明な点も多い。 佐橋荘を相伝した道幸の代に室町幕府から鵜川荘 うかわのしょう 安田 やすだ 条(柏崎市)を宛行 あておこな われ、その子孫は、北条 きたじょう 姓、安田姓などを称したが、毛利姓でよぶ場合も多く、戦国期はともに上杉家臣。 なかでも北条高広 たかひろ は、上杉謙信 けんしん の重臣として厩橋 うまやばし (群馬県前橋市)に居城した。 安芸毛利氏は、経光から吉田荘1000貫を譲与された四男の時親 ときちか が、南北朝期初頭に吉田荘の郡山 こおりやま に移住して居城を構えたのに始まる。 応仁 おうにん の乱(1467~77)の間に豊元 とよもと は、大内氏から安芸国賀茂 かも 郡(広島県賀茂郡)内で1000貫などを宛行われ所領を拡大、以後大内氏に従属したが、戦国期の元就 もとなり の代に大内氏から自立し、1557年(弘治3)に大内氏を、1566年(永禄9)には尼子 あまご 氏を滅ぼして中国地方10か国を領有する戦国大名となった。 孫の輝元 てるもと は豊臣秀吉 とよとみひでよし に従属し、1591年(天正19)秀吉から8か国、112万石を安堵 あんど され、広島城(広島市)に本拠を移したが、関ヶ原の戦い(1600)に敗れ、徳川家康に周防 すおう 、長門 ながと の2か国に領国を削減されて萩 はぎ (山口県萩市)に居城した。 江戸時代は、公称高36万9000余石で長州藩主。 幕末の藩主敬親 たかちか は、藩府を山口に移し討幕を推進、維新後、元徳 もとのり は山口藩知事となり、のち公爵となった。 けれども,以後安芸国では,中央権力と地域の大名大内氏との拮抗地帯であるという地域的特性,国人領主間の婚姻関係に基づく盟約などが基盤になって,衆中相論の調停機能をもつ領主連合が強化され,1512年 永正9 の国衆一揆を経て戦国期には大内氏の影響下で毛利氏を中心にいっそう進展し,大内氏滅亡後は毛利氏を盟主とする国衆間の一揆的結合に基づく支配形態が確立した。 そこで注目されるのは,領主の人格的支配権に属する下人・中間(ちゆうげん)や領域内の負債農民らが逃散した場合,お互いにをおこなって彼らを緊縛する協約が,毛利氏家中や所領を隣接する2国衆間ではすでに16世紀初めに成立していたが,1560年代初めには戦国大名毛利氏の主導のもとに安芸国衆全体で締結されていることである。 … 【郡代】より …守護,戦国大名の領国支配機構は守護代の下に郡単位に郡代を置いている場合がある。 比較的その実態が明らかな大内氏 周防,長門が本国で豊前,筑前をも領国とする ,大内氏を滅ぼして防長両国を征服,支配した毛利氏を例に以下その特徴を指摘する。 大内氏領国の郡代の職務は,管郡内の寺社・給人へ大内氏の命令を伝達するとともに管内の諸種の事柄を大内氏に注進する,郡帳 郡支配の基礎になる土地台帳 を掌握して管内の下地を管理する,管内から諸役 段銭等の公役(くやく)や郡夫など を徴収するとともにそれらを管理し,かつ用途に付する,在地に対して裁判権を行使することで,また筑前では郡代が城督 城奉行 を兼ねて軍事的機能をあわせ掌握している例もある。 … 【周防国】より …観応の段階での権力構成は同族結合という鎌倉期的様相を脱していないが,国人出身の直臣(じきしん)を取り立てて権力の一翼とし,同族および有力直臣を管国の守護代に任じて地域支配体制を整備するとともに,政庁の奉行人・評定衆を構成したが,それにつれて山口は領国の中心として発達し,歴代の京都との接触と外国貿易の影響により多彩な大内文化を作り上げた。 [毛利氏の支配] 大内氏滅亡後防長をはじめ中国地方をほぼ全域にわたって支配下におさめたは,一時的に毛利氏五人奉行に旧大内氏奉行人若干名を加えた奉行人組織により戦後処理を行い,大内時代の地域支配機構たる郡司制を継承した。 輝元時代にはその上に吉敷,佐波2郡と長門を管轄する山口奉行と,周防4郡 大島,玖珂,熊毛,都濃 段銭奉行とを置き支配体制を整備した。 … 【瀬戸内海】より …対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。 [戦国期] 戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年 弘治1 の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年 元亀2 能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年 天正10 が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。 塩飽海賊も三好氏が細川氏の実権を握るとそのに編成され,さらに信長の進出につれて,その水軍として軍用物資輸送などに活躍し,豊臣秀吉も塩飽島民を御用船方に任じ,塩飽全島を領知させてその功に報いた。 … 【大名】より … 1 国主大名とは1ヵ国以上の国を領有する大名,1国に近い土地を領有するか,もしくは領地高が多い大名をいい,家数は時代によって変遷するが,おおむね幕末では次のとおりである。 前田氏 加賀・能登等102万石余を領し金沢に住する ,島津氏 薩摩・大隅等77万石余,鹿児島 ,黒田氏 筑前52万石,福岡 ,浅野氏 安芸等42万石余,広島 ,毛利氏 周防・長門36万石余,萩,幕末に山口へ移る ,池田氏 因幡・伯耆32万石,鳥取 ,池田氏 備前等31万石余,岡山 ,蜂須賀氏 阿波・淡路25万石余,徳島 ,山内氏 土佐24万石,高知 ,宗氏 対馬10万石格,府中 の10家が1国以上を領有する大名としてあげられる。 宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。

次の

毛利庭園

毛利 庭園 生誕 の 地

毛利元就とは? 出典: 毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将です。 大内義隆(おおうち よしたか)を殺した陶晴賢(すえ はるたか)を、厳島(いつくしま)で破りました。 さらに、宿敵・尼子氏をを滅ぼし、西国10か国をおさめる太守となりました。 毛利元就の生い立ちと生涯 出典: 生まれ 名前:毛利元就(もうり もとなり) 幼名:松寿丸(しょうじゅまる) 出身地:安芸国(広島県)吉田荘の郡山城(こおりやまじょう) 生誕:1497年3月14日 死没:1571年6月14日 家族 父:吉田郡山城主・毛利弘元 母:福原広俊(ひろとし)の娘 兄:興元(おきもと) 姉:宮姫(のちの武田某室) 家紋 毛利家の家紋: 一文字三星紋(いちもんじにみつぼしもん) 孤独な少年時代 元就は、兄・興元が郡山城主を継いだため、4歳で父に連れられて猿懸城に移り住みました。 しかし、まもなく父母ともあいついで亡くなり、元就はわずか10歳でひとりぼっちになってしまったのです。 さらに、かれの後見人である井上元盛(もともり)は横暴な人で、 元就は15歳の頃城から追い出されてしまいます。 元就はその後、亡き父の後妻・杉の大方のもとで育てられました。 郡山城主となる 元就が27歳になったとき、かれの身の上に突然、大きな変化がおとずれます。 郡山城を継いだ幸松丸(兄・興元の長男)が、わずか9歳で亡くなったのです。 そのため1523年8月、元就は、重臣に迎えられて郡山城主に入り、毛利の本家を継ぐことになりました。 それからまもなく、元就の異母弟・元綱(もとつな)が、尼子氏の支援のもと謀反を企みます。 これを知った元就は、ただちに元綱を攻め滅ぼしました。 計略家元就 この頃、元就のいた吉田荘は、山陰の尼子氏と山陽の大内氏という二大国にはさまれ、いつ滅ぼされるか分からない不安な状態にありました。 毛利家はしばらく尼子氏側についていましたが、 1537年元就は長男・隆元を人質として大内義隆にさしだし、以後大内氏に従うようになります。 大内氏の力を味方につけた元就は、近隣の土豪をあらゆる手段(武力のほか、縁組・懐柔・離間など)をもちいて平定。 やがて、大敵・尼子氏との戦いをむかえることになりました。 1540年9月、尼子晴久の3万の大軍が、元就の郡山城を取り囲みました。 元就は、領民を城の中へ避難させて籠城。 尼子氏に偽の情報をおくり、攻め込みやすい青光井山に布陣させるという計略をはかります。 そして翌年1月、大内氏と連合して尼子軍を討ち破りました。 「毛利の両川」体制を築く 大内氏は、尼子氏をたおすため、出雲遠征にふみきりました。 この遠征で、元就は大内軍の先鋒として活躍します。 しかし、尼子氏に寝返る豪族があいついだため、撤退を余儀なくされました。 これらの戦いによって、尼子・大内という二大勢力は、おたがいにその力が弱まります。 元就にとって、これは有利な展開となりました。 自身の勢力を強めるため、元就は策を練ります。 それは、山陰の国境の強敵・吉川氏に、 次男・元春(もとはる)を養子としてさしだすこと。 そらに、瀬戸内沿岸の豪族・小早川家には、 三男・隆景(たかかげ)を養子としてだすことにも成功。 これらは「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれ、その作戦の巧妙さ、元就の欲の深さに周囲はみなおどろいた、といわれます。 厳島の戦い 1551年、元就はすでに55歳。 大内家の家臣・陶晴賢が主君・義隆を自害に追い込み、大内家の実権をにぎります。 この謀反を、元就が見逃すはずはありませんね。 元就は、陶軍を厳島におびきだし、村上水軍によって船団を壊滅させ、退路をたちます。 そのうえで、毛利軍・小早川軍が奇襲をかけ、陶軍をほろぼしたのです。 これが世にいう、 厳島の戦いです。 宿敵・尼子氏に勝利する 残るは、大内義長(よしなが)と尼子氏。 1557年、元就は義長を討ち、大内氏をほろぼします。 1563年、宿敵・尼子氏を攻めますが、遠征中に長男・隆元が急死します。 隆元の弔い合戦となったこの戦いは、兵糧攻めによってついに元就の勝利が決まりました。 その後、毛利氏の勢力は中国地方から九州におよび、西国に覇権をとなえるまでになります。 元就は一代にして10か国の太守となったのです。 毛利元就の人生年表 1497年 3月14日、毛利弘元(ひろもと)の次男として誕生。 1500年 兄・興元(おきもと)、家督を相続。 父とともに猿懸城(さるがけじょう)に移り住む。 1501年 母・福原氏が亡くなる。 1506年 父・弘元が亡くなる。 1511年 元服して少輔次郎元就と称する。 1515年 兄・興元に長男・幸松丸(こうまつまる)が誕生。 1516年 兄・興元が病死する。 興元の子・幸松丸が2歳で後継ぎとなり、元就が支える。 1517年 武田元繁との戦い(初陣)で、これを破る(有田・中井出の戦い)。 この頃、吉川国経の娘をめとる。 1523年 長男・隆元(たかもと)が生まれる。 8月10日、幸松丸の死去にともない、元就が毛利家の家督を継ぐ。 1524年 異母弟・元綱(もとつな)の謀反を知り、元綱を討つ。 家中統一に成功する。 1528年 尼子氏を見限り、大内氏に従う。 1530年 次男・元春(もとはる)が生まれる。 1533年 三男・隆景(たかかげ)が生まれる。 1540年 尼子氏の大軍に郡山城を囲まれる。 以後、激戦が続く。 1541年 大内氏と連合して尼子軍を撤退させる。 1542年 大内氏に従い、出雲に出陣する(先鋒として活躍)。 1543年 尼子氏に寝返る豪族があいつぎ、大内軍は撤退をよぎなくされる。 1544年 三男・隆景を小早川家に養子にだす。 1545年 妻(正室)が亡くなる。 1546年 長男・隆元に家督をゆずる。 1547年 次男・元春を吉川家に養子にだす(「毛利の両川」体制)。 1549年 発病する。 1551年 大内家の家臣・陶晴賢(すえ はるたか)が主君を裏切り、大内家の実権をにぎる。 1555年 厳島で陶軍を滅ぼす(厳島の戦い)。 1557年 大内氏を攻め滅ぼし、周防と長門(ともに山口県)を勢力下に加える。 3人の息子たちに、毛利家の団結を呼びかける(三本の矢の教え)。 1563年 宿敵・尼子氏を攻めるが、遠征中に長男・隆元が急死。 1566年 尼子義久を破り勝利する。 陣中にて病気が再発するが2ヶ月後に全快。 1567年 末子・秀包(ひでかね)が生まれる(母は乃美の方)。 1570年 孫・輝元とともに出雲に出陣。 尼子勝久を討つ(布部山の戦い)。 1571年 吉田郡山城で病死する(75歳)。 毛利元就の性格と人物像エピソード 元就の少年時代は孤独でみじめなものでした。 父の死後まもなく、後見役の井上元盛に所領の多治比三百貫を横領され、城からも追い出されるという、ひどい目に遭っています。 のちに元就は、この頃のことを思い出して、三男・隆景に、 「わたしは、これまで40年もの間まるで井上氏の家来のように服従し、これを耐え忍んできた。 その悔しさをわかってもらえるだろう」 と語っているのです。 このような幼い頃からの苦労と忍耐の日々が、元就のその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。 三矢の教訓 小さな領主からのし上がり大大名となった毛利元就。 そのためか、元就は「互いに団結し、対等の立場で協力し合えば大きなことができる」という考えをもち、絆を大事にする大名でした。 3人の息子に三本の矢をおくった、という話は有名ですね。 ・有名な三本の矢の話 「一本の矢ではたやすく折れるが、三本が束になるとなかなか折れぬ。 お前たちもこの矢のように毛利の繁栄のため、この先も三人で力を合わせるのだぞ」 しかし、この話はのちに創られたものといわれています。 これとは別に、毛利家には全文14ヶ条からなる元就自筆の教訓状が残されています。 有名な三本の矢の話は、この教訓状に書かれている「三矢の教訓」のことを指しているのです。 ・三矢の教訓の大まかな内容 「毛利家が永続し、吉川・小早川の両家が栄えるためには、三人はもちろん、三家がたがいに協力することが大切である」 「隆元は弟二人をたよりにし、弟二人は本家を大事にするように」 毛利元就の偉業や逸話 育ての親、杉の大方 幼少期、孤立無援だった元就に救いの手をさしのべたのが、多治比の土居屋敷にいた亡父の側室・杉の大方でした。 杉の大方は、実の母のごとく元就を慈しみ育てたのです。 元就が15歳のとき無事元服をすませられたのも、この杉の大方殿の尽力があったからだといわれています。 念仏十遍 元就は、11歳のとき、杉の大方にともなわれて井上光兼(みつかね)邸におもむき、客僧の念仏会に参会して、仏の慈悲の思想に触れています。 その頃から元就は、朝日に向かって十回の念仏を唱え、以後、生涯を通じて一度もこれを行わない日はなかった、といわれています。 人材不足 一代で10か国の太守となった元就の悩みは、人材不足であったといわれています。 とくに、国人領主層の経営能力のある者が少なく、適任者が見つかりません。 そのため、獲得した領地で経済的重要度の高い地域は、元就の直臣を派遣していました。 毛利元就の死因と最期 1570年、元就は腹部に異常な痛みを感じ、以来病床にふすこととなります。 かれの病は、 食道がんであったとされています。 それでも、一時は快方に向かうかに見えました。 これは、がん特有の症状です。 1571年3月、やや健康を回復した元就でしたが、4月に再度吐血。 5月には病状が悪化し、昏睡状態が続きました。 そして、6月14日午前8時、郡山城内で75年の生涯を閉じました。 毛利元就の妻や子孫 妻・妙玖(みょうきゅう) 元就の正室・妙玖は、安芸山県郡新庄小倉山城主吉川国経の娘。 妙玖という名は法名であり、実際の名は不明です。 1517年頃に元就に嫁いだと思われ、隆元、元春、隆景ほか女一名の三男一女をもうけました。 元就のよき内助者であり、一族団結の要であったと伝えられています。 元就は、妙玖を大切にし 愛妻家であったことも有名です。 孫・輝元(てるもと) 隆元の長男で元就の孫・毛利輝元は、 関ヶ原の戦いで西軍の総大将をつとめています。 毛利元就の名言 「ほんとうの友は一人もいない」 毛利元就は、よく酒をのんでは、こうつぶやいていたそうです。 戦国の世、知力や武力にすぐれた者は、必ず天下というトップをねらう時代です。 すぐれた資質を持つ者どうしは、必ずライバル関係にならざるを得ない。 元就は、トップを目指すものとして、孤独をも受け入れなければならない事実を実感していたのです。 毛利元就のゆかりの地 吉田郡山城跡の毛利元就墓所 出典: かれは、郡山城主となって以来、一貫してここをすべての拠点とし、さらには人生の最期もここで迎えました。 元就の生誕と永眠の地である広島県高田郡吉田町には、その郡山城跡を中心に多くの史跡が点在しています。 墓 元就のお墓は、吉田町歴史民俗資料館の右わきの坂を上っていったところにあります。 墓標のかたわらには、元就が郡山城を拡張するときに人柱に代えて埋めさせた 「百万一心碑」が立っています。 元就の、城を守るうえでの基本精神を象徴するものです。 城・城跡 郡山城本丸跡は、元就の墓所から山道を上ったところにあります。 毛利氏256年間の居城で、全山を城郭化した山城として全国的にも規模が大きいものとなっています。 木がうっそうと生い茂り眺望はよくありませんが、遊歩道が整備され、 鎧姿の元就の銅像をみることができます。 神社・寺院 郡山の南麓には、スサノオノミコトを祀る由緒ある神社が存在。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の伝説の地として有名です。 元就も厚く帰依した、とされています。 ・毛利元就 NHK大河ドラマ 毛利元就生誕500周年記念作品として製作された、NHK第36作目の大河ドラマです。 1997年1月5日~12月14日に放送されました。 参考文献• 『図説学習 日本の歴史6 ものがたり人物事典』(旺文社)• 『ビジュアル・ガイド 毛利元就』(PHP研究所).

次の