さか ほこ。 日本三奇の一つ「天之逆鉾(あまのさかほこ)」

逆鉾昭廣

さか ほこ

演者一覧 当日の演者一覧は以下。 シテ 林宗一郎 大鼓 辻芳昭 小鼓 久田舜一郎 太鼓 上田悟 笛 斉藤敦 地謡 笠田祐樹 上田大介 吉井基晴 林本大 能『逆矛』はどんな能? 「逆矛」について耳にするのは初めて。 なんとなく「天逆鉾」のことかと想像していたら、やはりそうだった。 「天逆鉾」とは記紀神話に登場する矛で、イザナギ、イザナミの夫婦神が、漂流していた大地に突き立てて「国産み」をしたとされる矛である。 能『逆矛』はこれを元にした能作品。 野上豊一郎著『謡曲 逆矛 解註謡曲全集 』の中にある『逆矛』解説(via amazon. jp)が以下。 「逆矛」は世阿弥または宮増の作と伝わる夢幻能。 紅葉の名所竜田山を訪れた旅人の前に、老翁(実は滝祭の神)が現われ、イザナギ・イザナミによる国土創成神話を語り聞かせます。 国産みの矛、どんなのか皆目見当もつかなかったけれど、この日の舞台では先に矛がついた長い棒が用意されていた。 舞の途中にこの矛を持って大地を掻き回す所作が入る。 林宗一郎師シテの舞囃子 『逆矛』をフルで見ていないので、林宗一郎師が舞われたのがどの部分かわからないけれど、掻き回す所作が入っていたので、クライマックス部だと思われる。 矛を振り上げ、降ろし、そしてかき混ぜる。 キリッと振り上げ、降ろす。 グッと神混ぜる。 この繋がり、豪快なのにコントロールが効いた動き。 一連のこの動きに、並々ならないエネルギーの凝縮、そして解放が込められていて、矛での国産みが聖なる力の表象であることが理解できる。 襟をただして見てしまった。 矛を舞台に置いてからの舞は解放感に溢れたもの。 でもそれも単にウキウキと舞うというのではない。 神が国産みという重大な務めを終えた後の喜びを表現。 一挙手一投足に強靭なパワーが満ちていた。 それも、力で押し切るというのではなく、非常に端正。 宗一郎師の動きはどこまでも端正。 力を完璧にコントロールした端正さ。 柱前でくるりと回る動きの美しさ。 そこからスーッと舞台中央に向かって進む動きの見事さ。 力と清廉とが対になって、神の威厳が表現されていた。 yoshiepen.

次の

日本三奇の一つ「天之逆鉾(あまのさかほこ)」

さか ほこ

来歴 [ ] 生まれ。 を中退して1月場所に福薗の名でを踏む。 7月場所に、兄のと同時に新となる。 11月場所は2勝13敗と大きく負け越し、に陥落したが、5月場所に再十両、このとき井筒部屋伝統の・逆鉾に改名した。 同年11月場所に入幕。 現役時代は父()譲りの「相撲巧者」と言われ、から相手のに潜り込むのが速く、そこからのがぶり寄りを得意とし、、三役の常連であった。 ちなみに本来は左四つだが、もろ差しに移行する際は右四つから巻き変えるのが特徴。 このため、右四つが得意な力士とは相性がよかったが、左四つが得意な力士とは安易に左四つになり相手十分の相撲となってしまうことも多かった。 7月場所にを飛び越して関脇昇進を果たし、次期の候補と呼ばれた事もあった。 実際、関脇は9場所連続で務めていたが、出世欲が乏しく、また部屋頭だったことからか、立合いで胸を出し、顎を上げる悪癖が治らず、の地位ではても8・9勝に終わり、2桁勝利(10勝以上)を挙げる事は一度も出来なかった。 また、最終的に三賞を9度も獲得したが、全て9勝以下での受賞であった。 その反面、話題には事欠かずに勝って上でガッツポーズを取ったり、実弟のが取り組みに負けた際、思わず控えで立ち上がって手を貸そうとしたりする行為が、問題視されたこともあった。 土俵上でガッツポーズした日本人力士は逆鉾が大相撲史上初と言われる。 昭和60年代には寺尾と共に同時関脇、同時受賞もしばしばあった。 立合い正常化講習が行われた直後の場所である1984年9月場所では、その場所3日目の北天佑戦で勝った際の取組で一度目の際どい立合いを「手つき不十分」と指摘したを睨みつけたことやインタビュールームで憮然と 「頭にきたからね、もう」と口にするなどの態度を見せて物議を醸した。 因みにこの取組は立ち合い正常化講習後の取り直し第1号。 千代の富士、の2横綱を破った1987年9月場所から3場所連続で殊勲賞を獲得。 ・が台頭してきた平成初期には力衰えて体も一回り小さくなっており、得意のもろ差しになってもそのまま後退して負けるといった取組が増え、低迷した。 加えてマスコミでも散々に書き立てられ悪役の役回りを割り振られたがそれでも人気は高く、十両に陥落し9月場所で引退するまで人気力士として活躍した。 横綱と屋台で遭遇してから、千代の富士に心酔し、以後両者はしばしば熱戦を展開した。 現役引退後は・を襲名して井筒部屋付きとなり、師匠の停年(定年)退職後はに名跡変更して部屋を継承した。 継承直後の1994年5月には、既に結婚していたことと当時7歳だった長女・清香(後の)の存在を明らかにして周囲を驚かせた。 部屋の師匠としては、直弟子であるをまで育て上げるなど手腕を発揮した。 アマチュア相撲の実績もなく、選抜テストを勝ち抜いた訳でもなかった鶴竜を横綱に育て上げたことは井筒の特筆すべき功績だと言われる。 また、相撲協会では、役員就任前は、役員でない親方衆で構成される年寄会の会長を務め、には役員選挙に立候補して副理事に就任した。 にに就任して以降は12年間の長きに亘ってその任務を果たし、2014年の副理事就任後も審判部に残留して副部長へと昇進した。 の役員候補選挙に立候補するも、落選する。 その後行われた新たな職務分掌では、監察委員となった。 2014年末には鶴竜がモンゴル人女性との婚約を発表したことを受けて会見を行ったが、この会見などの準備に追われた影響で体調を崩し、直後の2015年1月場所は目の不調によって全休。 同月29日の理事会より職務に復帰し、2月8日の大相撲トーナメントから審判長として土俵下に座る意向を示した。 2016年3月場所では、8日目に結びの一番で審判長の職務をしていたところに寄り切られて(だめ押しとの見方もある )土俵から転落したの下敷きとなり、左足を骨折して入院する災難に遭った。 怪我を負った2ヶ月後、白鵬が直々に謝罪に出向いたため、井筒と白鵬の間にわだかまりはなくなったという。 2018年2月2日の副理事選挙では4人で副理事の3枠を争う中、実弟のと異例の兄弟対決となった。 前回の選挙ではとの決選投票の末に落選した井筒は31票でトップ当選。 弟との争いに「複雑な気持ち。 同じ会社にいるもんじゃないなとつくづく思います」と喜びの表情は見せなかった。 2019年7月の名古屋場所後にが悪化、検査によりが発覚し、8月下旬から都内の病院に入院。 9月場所を休場していたが、同月16日夜に容態が急変し死去した。 58歳没。 同じ時津風一門の(元・)は死去に際して「病気のことは全然知らなかった」とコメント。 と共に最期を看取った錣山は「本当に頑張った。 褒めてあげたい。 最後まで顔を見られたことは幸せだった。 小さいときから、しょっちゅうけんかばかりしていた。 相撲に対しては天才。 それをすごく尊敬していました」と話した。 井筒部屋は死去に伴って本場所中に師匠不在となったため、転籍先が決まるまで時津風一門のが鶴竜を含む部屋所属力士・床山の身分を一時的に預かる形となった。 9月場所終了後の9月24日に行われた通夜は葬として執り行われ、一門の親方衆・関取衆のほか協会副理事であったことから一門外からもや、ら協会理事も参列し、角界関係者のほか600人が弔問に訪れた。 鶴竜はこの日初めて取材に応じ、最後にあったのは7月場所の千秋楽であったことを明かした。 夏巡業出発前にも電話でやり取りをしており「そこから会話できなかったのが悔い」 であるが、「厳しく、優しい人だった。 よく怒られたし、自分が負けると自分よりも悔しがってくれた。 それだけ期待して愛してくれたのだと思う。 これからは、教えてもらったことを胸に秘めて歩んでいきたい」と師匠への思いを述べている。 弟の錣山は通夜・告別式が井筒部屋で営まれることについて、「(闘病中に)本人が『部屋に戻りたい』と。 それがベストだと思う。 父(先代で元関脇・鶴ケ嶺)と母が築き上げた城に戻って見送られるのはいいことだと思う」と本人の遺志であったことを明かした。 作家のも自身のウェブサイトの1コーナー「大相撲小言場所」で「師匠としても横綱鶴竜を育て上げたのは立派。 しかし、現状(部屋消滅時点)で井筒部屋の力士は3人のみという寂しさもあり、必ずしも名門井筒部屋の立て直しに成功したとは言い難かったのが残念。 協会の要職についていたことも影響したか。 今後、鶴竜が協会に残り、名門再興を果たしてくれることを切に願う」と記述している。 エピソード [ ]• 小学校の時に現役時代の父が第45代横綱と対戦した写真を見て、初代若乃花の大ファンになった。 お小遣いが入ると若乃花やライバルの第44代横綱のことが載っている本や雑誌を求めて、若乃花の生い立ち、エピソード、全成績まで立ちどころにそらんじられるようになり、自分も若乃花のような力士になりたいと志した。 『若ノ花物語』のビデオを何百回も繰り返して見ていたという。 現役時代から読書家で有名であり、太宰治の小説などを好んでいた。 几帳面で、自分の部屋には子供の頃から集めていた相撲雑誌と相撲ビデオがきれいに並べてあった。 雑誌は発売日の順番に並んでいないと気が済まないし、壁の絵が少しでも曲がっていると寝られないと、付け人を呼び出して直させさせていた。 (第68代横綱)が左手で手刀を切ることを、が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じくでずっと左手で手刀を切っていた。 だが当時はこれを問題視するものは誰もいなかった。 現役時代はとも仲が良く、幕下に陥落してから再十両を果たすまでの間に師匠の大鳴戸と不仲に陥った板井は普段のちゃんこも井筒部屋で逆鉾と共に食べる間柄になったという。 現役時代のやんちゃぶりとは裏腹に親方としては家柄上角界のしきたりが身に付いた人物として鶴竜に礼儀を叩き込んだ。 観客を「お客様」と呼ぶなど観客を人一倍大事にする人物であった。 現役時代のやんちゃなイメージを表す愛称としては「チャカポコ」というものがある。 家系図 [ ] (25代)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下)の孫、(元関脇)の次男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。 井筒3兄弟と言われ、長兄が(元十両)、次男が逆鉾、三男が(元関脇)。 また、(元十両)は従弟に当たり、元選手のは親戚に当たる。 長女は元娘役()の(あまさき・ちはな)。 通算成績:551勝567敗29休 勝率. 493• 幕内成績:392勝447敗16休 勝率. 467• 現役在位:89場所• 幕内在位:57場所• 三役在位:16場所(関脇12場所、小結4場所)• 三賞:9回• 殊勲賞:5回(1984年5月場所、1987年9月場所、1987年11月場所、1988年1月場所、1988年7月場所)• 技能賞:4回(1984年3月場所、1984年7月場所、1986年9月場所、1989年1月場所)• :7個(3個 、2個、2個)• 各段優勝• 福薗 好政(ふくぞの よしまさ)1978年1月場所-1982年3月場所• 逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ)1982年5月場所-1989年7月場所• 逆鉾 信繁(- のぶしげ)1989年9月場所• 逆鉾 伸重(- のぶしげ)1989年11月場所-1992年9月場所 年寄変遷 [ ]• 春日山 好昭(かすがやま よしあき)1992年9月-1994年4月• 井筒 好昭(いづつ -)1994年4月-2019年9月 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2019年9月16日閲覧。 MOOK ; 1398〉、2018年。 NHK大相撲中継 1984年9月場所3日目• nikkansports. com 2015年1月7日9時10分 紙面から• ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p36-39• Sponichi Annex 2015年1月11日 05:30• Sponichi Annex 2015年1月29日 20:14• スポニチアネックス. 2016年3月22日. 2016年3月22日閲覧。 日刊スポーツ. 2016年3月21日. 2016年3月22日閲覧。 SANSPO. COM 2018. 2 17:53(産経新聞社、2018年2月3日閲覧)• JIJI. COM (時事通信社、2018年2月3日閲覧)• nikkansports. com 2019年9月24日. 2019年9月24日閲覧。 [悲しみ包まれる相撲関係者 井筒親方急逝から一夜明け ] イザ! 2019. 17 10:20(2019年9月20日閲覧)• zakzak 2019. 19(2019年9月20日閲覧)• - 日刊スポーツ 2019年9月17日• 主な参列者:八角理事長、尾車親方、鏡山親方、境川親方、春日野親方、出羽海親方、藤島親方、横綱・白鵬、大関・豪栄道、小結・遠藤、阿炎、幕内・友風、玉鷲、豊山、剣翔、竜電、輝(順不同)• BIGLOBEニュース. 2019年9月24日閲覧。 日本放送協会. NHKニュース 2019年9月24日. 2019年9月24日閲覧。 Yahoo! ニュース 2019年9月25日. 2019年9月25日閲覧。 ぼやいたるねん:大相撲小言場所 2020年2月2日閲覧• 2020年4月14日閲覧• 週刊ポスト2019年9月19日『元関脇・逆鉾の死去で「横綱・鶴竜」の争奪戦が始まる』] 2020年4月14日閲覧• 2020年4月14日閲覧• 具体例としては、自身より長く現役を続けた同部屋の兄弟子・を「霧島関」と呼んでいた。 小学館 板井圭介・著『中盆』p127 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 日本相撲協会.

次の

JISコード・Unicodeが無い一級配当漢字

さか ほこ

昭和59年初場所、横綱隆の里を破った逆鉾。 思わずガッツポーズが出た 大相撲の元関脇逆鉾(さかほこ)で、もろ差しの名人として知られた井筒親方(本名・福薗好昭=ふくぞの・よしあき)が死去したことが16日、関係者への取材で分かった。 58歳だった。 鹿児島県出身。 最近は膵臓(すいぞう)を患っており、8月からは東京都内の病院に入院。 日本相撲協会の巡業部副部長などを務めていたが、秋場所は初日から休場していた。 引退後は親方としてモンゴル出身の横綱鶴竜らを育てた。 この秋場所は体調不良を理由に休場していたが、58歳の若さで急逝した。 井筒親方急死の報に、日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)は「残念だ。 同じ時代に相撲を取ってきた。 若過ぎる。 理事会でも、モンゴル出身力士の育成をきちんとしなければいけないと発言されていた。 鶴竜を横綱に育てられたことを含め功績は大きい」とのコメントを発表した。 昭和53年初場所に「福薗」の名で初土俵。 56年名古屋場所で2歳上の兄・鶴嶺山とともに十両に昇進した。 一時幕下に転落するも再浮上し、57年九州場所で新入幕を果たした。 父の先代井筒親方(元関脇鶴ケ嶺)譲りのもろ差しからの速攻で活躍。 62年九州場所から平成元年春場所まで9場所連続関脇を務めた。 1歳下の弟・寺尾も60年以降は幕内に定着。 平成元年春場所には史上初となる兄弟同時三役を果たした。 軽々とバック転をこなすなど天性の運動神経と相撲センスに恵まれ、当時全盛期の横綱千代の富士らを苦しめた。 大関候補と目された時期もあったが、幕内優勝はなく、関脇で10勝以上を挙げたこともなかった。 金星は千代の富士や隆の里、双羽黒から計7個。 殊勲賞を5回、技能賞を4回獲得した。

次の