マッスル北村 子供。 ニコニコ大百科: 「マッスル北村」について語るスレ 31番目から30個の書き込み

マッスル北村の最後は餓死?伝説や名言が凄い!死ぬ直前の過酷な食事やトレーニングとは?

マッスル北村 子供

日本人ボディビルダーの中では、前例がないほど筋肉で身体が大きくなってしまったが故に、ドーピング疑惑がかけられボディビルダー界から姿を消すことになった時は、大きな話題になりましたよね~。 そんなマッスル北村さんが亡くなったと聞いた時は衝撃的でしたが、死因が餓死だという噂が浮上した時にはさらに驚かされました! マッスル北村さんは本当に餓死で亡くなってしまったのでしょうか? そこで今回は、マッスル北村さんをピックアップしてみたいと思います! マッスル北村さんのwiki風プロフィールをはじめ、過去の伝説や名言、死ぬ直前の過酷な食事やトレーニングについて紹介していきますよ~。 マッスル北村さんの壮絶な人生をとくとご覧ください! もくじ• マッスル北村のwiki風プロフィール! まずは、マッスル北村さんのことを知ってもらうために、wiki風プロフィールから見ていきましょう! 出典:• 本名:北村 克己(きたむら かつみ)• 芸名:マッスル 北村• 生年月日:1960年10月6日• 年齢:39歳(2000年8月3日死去)• 出身地:東京都• 身長:173cm• 体重:115kg• 血液型:B型• 最終学歴:東京学芸大学教育学部付属高校卒業• 家族構成:両親(父親 母親) 妹• 職業:ボディビルダー タレント• 所属事務所:マッスル企画• 趣味:体を鍛えること 以上が、マッスル北村さんのwiki風プロフィールとなります。 プロフィールを見ていて改めて思ったのが、マッスル北村さんは39歳という若さで亡くなってしまったのだということですよね。 プロフィールでは、最終学歴は東京学芸大学教育学部付属高校卒業となっていますが、マッスル北村さんは大学に進学したという学歴をお持ちです。 現役で防衛医科大学と早稲田大学理工学部に合格していたマッスル北村さんですが、なぜか大学に進学せず浪人人生を選択されています。 ただ、ボディビルという世界にハマってしまったマッスル北村さんは、大学に行かなくなってしまい最終的には中退することに・・・。 結局は、ボディビルダーというのがマッスル北村さんにとっては、天職だったということなのでしょう 笑。 マッスル北村の伝説や名言が凄い 出典: マッスル北村さんには数多くの伝説や名言があると言われています。 そして、その伝説や名言が凄いとの噂が・・・。 マッスル北村さんの伝説や名言とは、一体どんなモノがあるのでしょうか? まず、彼の伝説から紹介していきたいと思います! マッスル北村さんの有名な伝説と言えば・・・• 自転車で200km走破への挑戦• 急遽出場することになったアジア選手権 この二つがマッスル北村さんの有名な伝説となります。 地図上での推定直線距離で家から約200kmの目標地点を目指して・・・。 実際にトレーニングを開始してみると、目標地点まで標高差があるためアップダウンの峠があることはわかっていたものの、地図を見ていると簡単そうだと考えていたマッスル北村さんは、この峠に大苦戦することになります。 そのため、彼は16時間も自転車を漕ぎ続けたとのこと! ただ、目標地点までもうすぐというところで、余りにも喉が渇き過ぎて命の危険を感じたため、仕方なく休憩し準備していた牛乳1パックを一気飲みしたそうなのです。 ですが、その牛乳は常温で16時間も経過したものだったため、彼が飲んだ時には完全に腐っていたようで、飲み終えてすぐに体に異変が起き、痛みのあまり道中で意識を失い倒れてしまったのですよね~。 幸い、倒れているマッスル北村さんを救助してくれた方がいて、彼が起きた時は病院のベッドだったそうです 笑。 結果的には目標地点には辿り着けていませんが、十分伝説と言える挑戦ですよね! 2つ目の伝説が、1985年に急遽出場することになったアジア選手権での出来事です。 hatenablog. ただ、そのアジア選手権は4日後に開催される大会だったのです! 実業団選手権直後のマッスル北村さんの筋肉はすでに疲労していたため、このまま出場しても結果は知れていると考えた彼は、少し好きな物を食べて筋肉に張りを持たせようと食事を摂ったのですよね。 ですが、実業団選手権直後ということと好きな食べ物という要因が重なり、マッスル北村さんの食欲は止まらず、食べ続けた結果体重がわずか2日で85kgから98kgに増量してしまったのです! このままではさすがにマズいと感じたマッスル北村さんは、電車を乗り継いで山奥まで移動しそこから自宅までの100kmマラソンに挑戦することに。 結果的には120kmの距離を15時間かけて走り切り、14kgの減量に成功したのです。 そして、アジア選手権ではライトヘビー級のタイトルを獲得したのです! どちらの伝説もとてもマネできない伝説ですね 笑。 また、マッスル北村さんには数々の名言があるのですが、ここでは印象的な名言を紹介致します。 まさに最後の1回は全身全霊の限界力を振り絞った一発。 その前の1千回はこの1回のためのお膳立てに過ぎない。 最後の一発はその前の1千回に勝るとも劣らない価値がある。 ただ、その失敗はその後の彼の糧となっているとのこと。 だからこそ、自分がやってみたいと思った事は、負けや失敗を恐れてやらないという選択肢は、マッスル北村さんにはなかったのでしょうね~。 伝説だけでなく、名言も凄いですよね! マッスル北村の最後は餓死?死ぬ直前の過酷な食事やトレーニングとは? 出典: マッスル北村さんは、2000年8月3日に39歳という若さで亡くなっています。 実際のところ、マッスル北村さんの死因は餓死だったのでしょうか? まず、結論から言うとマッスル北村さんの死因は餓死ではなく、異常な低血糖状態から急性心不全を引き起こしたことが死因だと言われています。 そのため、マッスル北村さんの最後が餓死だったという噂は間違いということですね。 ちなみに、マッスル北村さんが死ぬ直前の過酷な食事やトレーニングとはどういったモノだったのでしょうか? まず、減量トレーニングとして行われていたのは、炭水化物を限りなくゼロに近づけるカーボローディングという古典的なトレーニングだったと言われています。 マラソンのトレーニングとして、カーボローディングを取り入れている方の一般的なトレーニングはこんな感じです! 出典: これを見る限りでは、それほど過酷な食事やトレーニングとは思えないでしょう。 ただ、古典的なトレーニングと言っても、マッスル北村さんは極限まで自分を追い込む過酷なトレーニングをする方なので、常軌を逸していたというのは想像できますよね~。 実は、マッスル北村さんは亡くなる数日前にも倒れて救急車で運ばれていたそうなのです! その時は、処置が間に合ったため一命は取り留めたのですが・・・。 飴一個は食事とは到底言えませんが、それすらも許さない過酷な食事やトレーニングを自分に課していたということなのでしょう。

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マッスル北村は死因は何?死ぬ前/伝説の名言/食事・酒など【ストイック】|うわさうわさうさぎ。

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実業団選手権に出て優勝したばかりのマッスル北村さんに、アジア選手権へのオファーが来ます。 快諾したマッスル北村さんでしたが、後4日しかない状態でした。 大会に出たばかりで筋肉が疲弊していると感じたマッスル北村さんは、とりあえず一旦食べて筋肉を回復させハリを取り戻そうと食べました。 2日で85キロから98キロまで増量してしまったマッスル北村さんは、減量の為120キロもの道を15時間かけて走り、14キロ減量しました。 道中足の爪が剥がれ血だらけになっても、続けるという執念でした。 39歳という若さで亡くなったのは、急激な減量や、マッスル北村さんのとことんやる、という性格が災いしました。 やるとなったら徹底的にやるという熱意から、一粒の飴すら舐めない状態で、減量していたマッスル北村さんは、オイルダイエットという減量方法を実行していました。 そこから、さらに減量を進めていくのですが、肉体の限界が来てしまい、そこでも栄養を補給しようとしなかったため、死亡してしまいました。 規格外の体格だったため、葬儀には特注の棺が用意されました。 そこで夏休みにサイクリングの計画を立てたのですが、なんと大体200キロの道を行く計画でした。 もちろんただの長距離走行で終わる訳ではなく、高低差の激しい道を休憩無しで、という計画でした。 16時間ぶっ通しでこぎ続け、すでに200キロ程走っていた北村さんは、さすがに飲み物を飲もう、と休憩しました。 しかし持ってきていたのは牛乳1パックで、16時間暑い中持っていたので当然腐っており、それをそのまま一気飲みしてしまったのです。 体調を崩し気を失った所を発見され、救急車で運ばれました。 その結果、念願だった大会で優勝したのですが、ドーピングをしているとされ、失格になってしまいました。 それが元で、団体を抜け、世界大会への道も閉ざされてしまいました。 このドーピングは、後々マッスル北村さん自身の著書で、はめられたという真相を語っています。 国内ビルダーとしての道が閉ざされたマッスル北村さんは、芸能界から新たな道を切り開いていこうとします。 「ジャパン チャンピオンシップス」で石井直方を破り優勝も筋肉増強剤使用で失格に.

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マッスル北村とは (マッスルキタムラとは) [単語記事]

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伝説のボディビルダー 皆様は、飽食といわれる現代の日本で、事実上の飢えで亡くなったと噂される、伝説のボディービルダー、「マッスル北村」のことをご存知だろうか? 写真だけを見ると、感想は「なんとも凄い肉体!」である。 格闘漫画「グラップラー刃牙」に登場する、愚地克己のモデルにもなったほどである。 彼は、不思議な学歴タレントとして、テレビでも活躍していた。 マッスル北村の伝説 ・ 家族と一緒にとる「普通の食事」以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した ・ 筋肉のサイズアップに効果があるとして、鶏肉をミキサーにかけペースト状にしたものを大量に摂取した その動画がこちら にわかに信じがたい光景である。 筆者はロッキーに憧れ、卵白を飲んだことがあるのだが、これが全くの無味で、しかも喉元に来ると、大量の痰を飲み込んでいるような違和感が、全体に広がるのである。 それをこれほどの量を食べる、否、摂取するなんて、世にも奇妙な光景である。 ここにエッセンスを加え、風味を和らげるのは、熟練者ならではの知恵であるといえよう。 しかし、動画に見られるように、お世辞でも美味しいといえないものを勧めるほどになる、というのは狂気の沙汰であるといえる。 他にも ・ 関東学生選手権を圧倒的実力で優勝 ・ ボディビルに専念するため東大を中退 ・ 大会前の2日で85kgから98kgへ増量、そこから減量のため100kmマラソン、気絶することなく計120kmを走り抜き、1日で14kgの減量に成功 数々の伝説を生み出したマッスル北村。 彼の壮絶な肉体もさることながら、その彼が生きた人生も凄絶であったのである。 まさにエリート中のエリートと呼べる経歴である。 ボディービルダーとしての経歴も、輝かしいことがお分かりになるだろう。 旺盛な好奇心、研究に明け暮れる日々 修理しまくる幼少時代 マッスル北村 (本名、北村克己)は1960年10月6日、東京都に生まれる。 父は彫刻家、後に妹が生まれ、4人家族の長男として育っていくのである。 この頃は、冒頭の写真のイメージとは異なり、おとなしい子どもであったようだ。 小学校時、マッスル北村は「ラジオ組み立てキット」に夢中になり、ラジオにとどまらず電気に興味を持ち、夢中で研究し始めたという。 家にある壊れたラジオを分解しては、修理していた。 それだけでは飽き足らずに、壊れたテレビを電気屋に譲ってもらい、それをまた分解し、壊れた原因を探り、修理していたという。 この時から、マッスル北村は、熱中すると、とことん打ち込む、という姿勢がひしひしと感じられる。 目の前にある興味、それに対して、一辺倒に取り組む。 この時から、マッスル北村は「がむしゃら」という言葉が、ぴったりの人間になっていった。 「走るんだったら倒れるまで走る」レールからはみ出し、己の道へ 中学2年生。 当時、マッスル北村は、自転車に熱中していたのだ。 夏休みが終わる2日前、8月30日深夜2時。 マッスル北村は、夏休みの課題として、自転車を題材にした研究をしており、その最後を飾る実験として、自宅から200キロほどの距離にある奥多摩まで自転車で行くことを計画したのである。 車で走るとしても相当な時間を要する距離なのだが、それを自転車で行くというのだから恐ろしい計画である。 そしてここは、マッスル北村、やはり普通の長距離サイクリングではなかった。 アップダウンの激しい道を、ほとんど飲まず食わずの状態で、走り続けたのだ。 しかし、無謀なこの計画は、完遂されること無く終わったのである。 (課題は完成した模様) およそ16時間に渡る走行の末、牛乳を口にした。 しかし自宅から持ってきたその牛乳は、数日経ちゼラチン状に固まっていたのだ。 その後の道中で気を失い、病院に運ばれたことは想像に難しくない。 マッスル北村が次に目覚めたのは、奥多摩病院の8号室だった。 これまで親に心配など一つもかけたことがなく、勉強熱心で悪いこともせず、学校では学級委員はもちろんのこと生徒会委員にまでなるぐらいの優等生お坊ちゃまが、自分の夢にはしり、親の夢や希望を破り、心配ばかりかけるようになってしまったのです。 この日から私は兄と両親の板ばさみになり、両方の間を行ったり来たりする立場に立たされるようになったのです。 兄にとって完全燃焼人生の第一歩とも言える記念すべき日かもしれませんが、両親にとって大変な日々の始まりでもありました。 (思い出ぽろぽろ) これは、妹である善美さんの手記から引用している。 きっと本人からすれば、完璧な予定が組まれていたのであろう。 思い立った計画に、ワクワクしすぎたのか、大切な資本である自分の体を度外視し、配慮が足りていないような気がする。 この見落としが後に、大きな問題になることは、この時誰も知る由がなかったのであろう。 「生きるとは何か?」自問自答する高校時代 高校時代、相も変わらず、多くのことに感心を持っていた。 学校から帰宅すると、自己鍛錬と称し、トレーニングに明け暮れて、夜になると、宮本武蔵や大山倍達、などの偉人たちの本を始め、物理学、哲学、宗教、多岐にわたり読み漁り、「自分が何者であるか」を、探求していた。 「 ボクには時間が無い」 卒業へと近づいた、マッスル北村は、この言葉が口癖になっていたようだ。 一見平穏だった浪人時代 今思い返せば、兄の39年間の人生の中で親が兄に対して心配せず、将来を夢見られたのは小・中学校時代と唯一この浪人時代ではなかったではないでしょうか。 親も兄が勉強をしている姿をみては、これで兄もまともな人生(!? )を送ってくれるのではないかと夢を描いていたようです。 思い出ぽろぽろ 冒頭で少し触れたのだが、マッスル北村は 現役で防衛医科大学校と、早稲田大学理工学部に合格しているのである。 がしかし、これらの大学には通わず、彼は、浪人の道を選んだのである。 考察するに、彼が目標としたのは、東京大学であり、合格した二つの大学は、自らの力量を測るための受験であったのではないだろうか。 合格へと勉学に励む、マッスル北村、それを見守る両親。 この時間は、お互い同じ方向を見ていた時期であったといえる。 しかし、マッスル北村は熱中、いや没頭できるものを求めていたはずである。 「生きるということは何か」を探求した上の、純粋なる刹那主義。 東京大学を合格したマッスル北村にとって、東京大学は既に、面白味のないものになってしまっていたのである。 ボディービルとの出会い 東京大学入学後、目標を失い、抜け殻状態であった。 この時、マッスル北村が出会ったのがボディービルである。 そこで自分と周りとの図体の違いに恥じらいを感じる。 そして、それをも通り越し、怒りまで覚えるほど悔しい思いをしたのだという。 彼はそれから、魂を吹き込まれたが如く、この道にのめり込んでいくのである。 それからというもの、ボディビルに対し、常軌を逸したほど没頭し、 大学の授業には全く出席せず、果ては東京大学を中退するに至っている。 熱い魂を呼び戻したマッスル北村は、前例の通り、全力で走り出すのである。 あの夏休み、後先考えずに、計画を遂行した日のように、彼の足は再び、彼の道を走り出したのである。 一念発起で、一発合格。 でも中退 そんな中、「 自分はどうあるべきか。 人の役に立ちたい」と、またもや猛勉強を開始。 そして東京医科歯科大医学部に合格、入学するも、「 ボディビルを極め、ボクはボディビルを通じて万人を勇気づける心の医者になりたい」、この志に行き着き、ボディビル一本に集中して取り組む為に中退。 「入学式で親と写真を撮ったんだけど、これ以降、父の笑った顔を見たことがない」と本人も語っており、父親との関係は衝突の連続であったようだ。 とまらないオーバートレーニング それからというもの、ありえない程の、たゆまない努力をするマッスル北村は 、1986年7月20日 「ジャパン チャンピオンシップス」において、日本人最高のバルクとして謳われた石井直方を破り、優勝。 ボディビルダーの憧れである「ミスターユニバース」の切符を手にする。 しかし、筋肉増強剤であるナンドロロン使用により、失格とされてしまう。 その時のトラブルが元で、コンテストビルダーとしての道を、閉ざされる結果になったのである。 これに関し、後に著書にて「はめられた」と語っている。 事実のほどは、定かではないのだが、たとえもしドーピングをしていたとしても、筆者は彼を美しいと賞賛したい。 一点へと曇りなく突き進む姿は、まさに芸術といっても、過言ではないだろう。 「僕はそんなカロリーすら摂取したくない」 しかし熱量の冷めないマッスル北村は、今までと変わらず、常人ではありえないトレーニングに、日々を費やすのである。 急激な減量により、身体中の電解質が不足したり、低血糖症のために倒れ、何度も救急車で病院に搬送されることになる。 2000年8月3日、ボディビルの大会に参加するべく、脂肪を落とすため、20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こして亡くなることとなった。 享年39。 これが亡くなった原因が事実上の飢え、だといわれる所以である。 亡くなる数日前にも、倒れて救急車で運ばれており、この時は、処置が間に合い助かっていた。 この時、身を心配した妹が「めまいがしたらアメを舐めて。 アメでいいから」と懇願するも、「僕はそんなカロリーすら摂取したくない」と断る徹底ぶりであったという。 『物事には全て理由がある』 幼い頃から、興味を抱いたものには片っ端から、研究し、道理を探り、とことん突き詰め、目標を達成してきたマッスル北村。 「 物事には全て理由がある」 この探究心こそが、彼の生き急ぐ足に、安息を与えなかった理由なのではないだろうか。 『自分の限界を見てみたい』 善美さんは語る。 昔、「北村(克己)さんは、才能と天性に恵まれていて悩みが無くていいですよね。 」と兄のことで電話をいただいたことがあったのですが、そのとき思わず「まさか、兄は悩んでばかりですよ!」と即答したほどです。 悩んでお酒に走ったこともありました。 飲む量も常人のレベルではないのです。 お酒が大好きということもあるのですが、一度あけた蓋は底を尽くまで飲み干すのです。 日本酒でも焼酎でもワインでもお酒の種類にかかわらず、2Lでも3Lでも。 2本でも3本でも。 飲んで現実逃避したかったのか、考えをまとめたかったのか、悩みを解決する道を探していたのかそれはわかりませんが、家族も友人も愛犬もそんな兄を心から心配しました。 愛犬 チビ も兄にお灸を据えるため兄のトレーニングに使う大切な手に深く噛み付いたことも数回ありました。 思い出ぽろぽろ マッスル北村は、言わずもがな茨の道を歩んでいたのだ。 厳しい道程に、立ちはだかる壁、試行錯誤し、乗り越え、また進み出す。 なぜ、こういったことができたのだろうか。 善美さんの言葉にもあるのだが、きっとそれは、彼が自分の道、夢というものに、出会ったからである。 夢を目指す者と、周囲の人達。 お互いが、いくら思い合っても、幾分、折り合いがつかない部分があるだろう。 夢を目指す者は、ひたすら突き進むのだ、いかに問題があろうと、それが己の道であると知っている。 しかし周囲の人達はそうではない。 「別にすごい人間にならなくていい、平凡な幸せを築いて欲しい」 親という立場になれば、余計にこう思わざるをえない。 マッスル北村にとって、その思いは痛いほど感じるであろう。 そして後髪を引くような優しい思いを、振り切る痛み、問題に直面したときの痛み、両方がのしかかり生まれる悩み。 これは体験する本人でないと、計り知れないものである。 それでも、なお信条を貫き、限界に挑戦し続けるということは、常人では耐え難く、険しい人生であったことは、言うまでもない。 限界の最中 マッスル北村の言葉をひとつ紹介したい。 「 他人を納得させる記録や結果よりも、たとえ自己満足と笑われようが自分で自分に心から「よくやった」とひとこと言える闘いこそ、まことの勝利であり人間としての自信と誇りを得て人生で最も大切な優しさや思いやりを身にまとう瞬間だと思う」 この言葉は、彼の人間性と生き様をまじまじと表している。 限界に挑む中、彼は、何が大切であるかを悟っていたのだろう。 燃え尽きるまで マッスル北村は、真っ直ぐすぎる生き方を通し、若くして亡くなった訳であるが、彼の周囲の人間は、わかっていたであろう。 それが彼の、「マッスル北村」という人間の本当の幸せであったということを。 死後、十数年経った今でも、マッスル北村は人々を魅了してやまない。 死去から12年後、2012年8月31日、書籍『マッスル北村 伝説のバルクアップトレーニング』が発売され、2015年9月23日放送の『この話、凄くないですか? 』(フジテレビ)では、秋山竜次(ロバート)により、生前のエピソードなどが語られた。 マッスル北村の願いは叶っている。 なぜなら彼は、その人生で、こうして万人を勇気づける医者になれたのだから。 これほどまでに、私達が、実直に、格好良く生きることは難しい。 しかし、彼を偲び、人生をなぞるように思い馳せ、私達の送る人生の糧にしていくことは難しくないだろう。 許諾元:北村善美 参照元:、、YouTube この記事を友達にシェアしよう!

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