アレキサンダー 大王。 アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)|マケドニア王国と古代ギリシャの帝国を築いた偉人

アレキサンダー大王の死因の謎と陰謀!逸話の数々と東方遠征

アレキサンダー 大王

・ページ内の見だしリスト• 5 アレクサンドロスの生涯 英語の読みではアレキサンダー。 ギリシア北方の大国のの子としてに生まれる。 13歳から3年間、哲学者の教えを受けたという。 アテネから招かれたアリストテレスは家庭教師として教育に当たり、アレクサンドロスも熱心な生徒としてギリシア文化を吸収したが、結局はアリストテレスのポリス的世界観を破壊する(克服する?)役割を担うこととなった。 王となってから、清貧で知られた哲学者の教えを請おうと訪ねたが、軽くあしらわれてしまったという逸話も有名である。 前336年、父王が暗殺されたため、20歳でマケドニア王 アレクサンドロス3世(通常はアレクサンドロスでよい。 後には大王といわれる)となる。 アレクサンドロスはの盟主としてのマケドニア王位についたので、ギリシアの同盟諸国(スパルタを除く)に対しても統制する立場にあった。 アレクサンドロスはまず北方のドナウ川方面を平定し、さらにが離反するととって返してそれを討ち、ギリシア諸国との同盟関係を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。 アレクサンドロスの東方遠征軍は各地で軍を破り、短期間で小アジア・エジプト・メソポタミアを制圧し、前330年には、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるを出現させた。 さらに中央アジアに入り地方などを制圧、人の抵抗を受け、苦戦を続けていたが、前327年春、捕虜となっていたソグディアナ人の豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。 アレクサンドロスはオリエント世界を征服する過程で、エジプトではとしてふるまい、ではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。 このような東方か政策はマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるようになった。 中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした彼の計画は、多くの武将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。 前323年、で熱病にかかり32歳余で死んだ。 その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者()によって分割支配されることとなった。 彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、という新たな文明の出現をもたらした。 アレクサンドロスの東方遠征の理由は、古来、の復讐戦であるとか、大王の領土的野心、インド征服の夢など、さまざまな見解があるが定説はない。 大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると(あたかも前アメリカ大統領ブッシュのような)戦争目的を部下の将兵に語っている。 背景には、ポリス社会の崩壊に伴い、ポリスというよりどころを無くしたギリシア民衆の不満と不安のはけ口を求める声があったのではないだろうか。 また、征服地には各地に植民市を建設し、ギリシア人を入植させた。 遠征後半はペルシア人など現地勢力との融合をはかる政策をとった。 これらは 東西融合政策といわれているが、その実態はギリシア人の不満分子の隔離という側面もあった。 東方遠征軍の編成 アレクサンドロスの率いたマケドニア軍の編成は、中核をなす騎兵部隊が8隊1800人からなり、騎兵ヘタイロイ(仲間の意味)と美称され、兜と胸当てを付け、腰に短剣を差し、長さ2. 7mの槍を片手に握り、方形や楔形の隊形で戦った。 マケドニア人歩兵はペゼタイロイという重装歩兵部隊(1500人の部隊が6隊、計9000人)と、ヒュパスピスタイという近衛歩兵部隊(1000人ずつの3隊)の二種があった。 前者がフィリッポス2世が創設した、長狭5. 5mの長槍(サリッサという)を前の4列が水平に構えるハリネズミ方式をとった。 後者は職業軍人、つまり常時兵力であり、遊撃戦、奇襲作戦などで活用された。 これらのマケドニア人主力の他に、ギリシア同盟軍、ギリシア人傭兵、バルカン諸民族の部隊など、総兵力は3万7100人にのぼった。 また、別に先遣部隊総勢1万、非戦闘員(従者、土木技術者など)を加えれば総勢6万4000になるという。 本国残留部隊として12000の歩兵と、1500の騎兵がおかれた。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p. 112> 東方遠征のルート アレクサンドロスは東方遠征に先立ち、前335に北方のトラキアと南方のギリシア本土を制圧。 テーベを破壊し、コリントス同盟会議で翌年からの東方遠征を表明した。 (22歳)5月ペラ東方のアンフィポリスに軍を終結させ遠征に出発した。 以後の遠征は次の三つの時期に分ける。 初めてペルシア帝国ダレイオス3世と会戦。 パンジャブの象部隊と戦う。 将兵の中に帰国を望む声強くなる。 第3期 前326年末、インダス河口到達からバビロンに帰還し、前323年に死去するまで。 さらに西進し、地中海方面への遠征を考えていたらしいが、熱病にかかり、6月17日に死去、32歳であった。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p. 110~/NHK『文明の道 アレクサンドロスの時代』2003 などによる> アレクサンドロスの東方遠征 1.ペラ 2.グラニコス川の戦い 3.サルディス 4.イッソスの戦い 5.アンティオキア 6.ティルス 7.メンフィス 8.アレクサンドリア 9.ダマスクス 10.ガウガメラの戦い 11.バビロン 12.スサ 13.ペルセポリス 14.エクバタナ 15.ヘカトンピュロス 16.バクトリア 17.サマルカンド 18.パンジャブ Episode 大王の戦術と武器 アレクサンドロス大王の軍は、陸軍が主体で、ギリシアの戦術をさらに改良したものであった。 甲と脛当に小型軽量の丸楯を防具とし、武器はサリッサという5~6メートルの長槍を用い、密集して方陣をつくり、最前列から第3列までは槍を水平にかまえ、それより後方の列は斜め前に保って突撃し、前列が倒れれば次の列が槍を繰り出し、連続して敵を攻撃した。 また、アレクサンドロス軍は、腱または人間の毛髪を堅くよじってそのねじり力を利用した二種類の射出機を用いた。 その一つはカタペルテスで、小型で矢や礫を打ち出すのに使い、もう一つはペトロボロスといって20~27キロの石弾を射出できる大型のものだった。 <『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫の註p. インド軍の象部隊との戦いは一見すると良い。 アレクサンドロスの遠征を湾岸戦争の多国籍軍のアラブへの侵攻と重ねて考えようとしている。 大王の神格化、東方化 アレクサンドロスはギリシア諸国の「コリントス同盟」の盟主であるマケドニア王として東方遠征を開始、オリエントを転戦することとなったが、その過程で徐々にオリエント的な神格をもった王に変質していった。 このような神格化の傾向は、大王の東方化(アジア化)とも捉えられる。 引用 アレクサンドロスの遺産の中で、後世に最も確実な影響を与えたのは、彼が君主崇拝の先鞭を付けたことである。 それはヘレニズム諸国において制度化され、ローマ皇帝礼拝へと発展していった。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p. 302> アレクサンドロスの神格化は、次の四つの段階が区別される。 第一段階 遠征初期までは、両親の系図に基づいて、自分が英雄アキレウスとヘラクレスを通して神の血統につながると信じていた。 第二段階 アモンの神託 前331年 エジプトを平定したアレクサンドロスは、リビア砂漠のシーワ=オアシスにあるエジプトの最高神(アメン)を祭る神殿に参詣した(その神託はギリシア人にもよく知られ、ゼウスと同一視されていた)。 神官から「おお神の子よ」と挨拶され、彼がゼウスの子であるとの神託を受けた。 やがて彼は宴会でアモン神の聖衣をまとい、アモンの象徴である羊の角を頭に載せて興じるようになった。 第三段階 ペルシア人から跪拝礼を受ける。 跪拝礼とはペルシア人の日条の挨拶から発展した宮廷儀礼で、宗教的意味はない。 しかしギリシア人から見れば自由人が跪拝するのは神々に対してだけであったから、アレクサンドロスがペルシア人の跪拝礼を受けることの効果を考えていたと思われる。 第四段階 ギリシア諸都市が公式に神格化決議をし、大王がそれを受け容れた。 前323年、バビロンに戻った大王のもとにギリシア諸都市の神事使節団が訪れ、黄金の冠を奉呈した。 ギリシア人は大王の暗黙の要求を読み取り、自発的に大王神格化を競い合ったのであろう。 <以上、森谷『同上書』講談社学術文庫 p. 304-306> アレクサンドロス自身が神格化をどこまで本気に考えていたかは、プルタルコスやアリアノスの大王伝でも否定的であり、それを受けて森谷公俊氏も慎重に筆を進めている。 要するに、アレクサンドロス大王の神格化とは、それによって何かをえようとする人々が「忖度」して成立したのだろう。 洋の東西、時代のちがいを超えて権力者に対する忖度は常にあったと言うことか。 しかし、アレクサンドロスの神格化・東方化には抵抗もあったことも事実だ。 (2017. 07記) アレクサンドロス神格化・東方化に対する反発 前330年 ペルセポリスのペルシア王宮を焼き払い、ダレイオス3世を追って中央アジアに向かったアレクサンドロスは、ダレイオス3世が殺害されてペルシア帝国が滅んだことを受け、ギリシア同盟軍を解散し新たな軍を再結集した。 ギリシアの大義を掲げた遠征は名実ともに終結し、ここからはアレクサンドロス自身の遠征が始まる。 そしてアレクサンドロス自身がペルシア風の衣装を採用し、旧ペルシア王族を側近に取り立て、アケメネス朝の後継者としての正統性を明らかにした。 しかしこの大王の東方化路線は遠征軍内部に亀裂を生むこととなり、前330年秋にはアレクサンドロス暗殺未遂事件が起き、名声のあった部将パルメニオンが関連したとして謀殺された。 それ以後も大王の東方か路線に反発する動きがたびたび表面化している。 アレクサンドロスは宮廷においてペルシア風の衣装を採用しただけでなく、前328年、ペルシア王に謁見者が膝を突いて平伏したのと同じ跪拝礼をマケドニア人、ギリシア人にも導入しようとした。 しかしギリシア人は自由人が神々に嘆願する以外に平伏することを屈辱的として強く反発、マケドニア人の将兵も反発したため断念し、ペルシア人など東方人のみが実行することで落ち着いた。 <同上書 p. 167-8> 集団結婚式 、アレクサンドロス大王はペルシア帝国の旧都(スサ)において集団結婚式を挙行した。 大王自らがアケメネス王家の二人の娘を娶り、約80人の側近たちにペルシア人、メディア人貴族の女性を与え、さらに約1万人に及ぶ兵士たちにアジア人女性との結婚を認めて祝い金を与えた。 この集団結婚式は、かつては民族融合策の一環であると解釈されてきたが、それは的外れであるとの指摘がある。 その根拠として、まず側近の武将の集団結婚には次のような説明がある。 征服者であるマケドニア人にとって、征服された旧ペルシア帝国の女性を手にいれることは戦利品の分配に当たる。 男性はマケドニア人、女性はすべてイラン人であり、その逆の組み合わせはない。 「融合」といった対等なものではない。 側近にとっては将来の出世につながる、昇進のための交換条件にすぎなかった。 大王にとっては側近の忠誠心を試す意図があった。 これらのカップルの大半はその後離婚したと考えられる。 マケドニア人のイラン人に対する差別意識はなくならなかった。 セレウコス朝を建てたがイラン人の妻アパマと生涯分かれなかったのは例外である。 一般兵士の場合は、アレクサンドロスがアジア人女性と結婚した兵士に名前を届けさせたところ、その数が1万人にのぼったということで、彼らは遠征先で現地の女性と関係をもち、彼女たちは兵士に付き随ってスーサまでたどりついたのだった。 つまり「現地妻」であって、政策的な「民族融合」ではない。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p. 後継をどうするか、遺言がなかった。 側近の将軍たちは妊娠8ヶ月だった妻ロクサネが男子を産めばその子を王位に就けることとし、2ヶ月後に生まれたその子がアレクサンドロス4世として即位した。 摂政となったペルディッカスは将軍たちを集め、総督領を分け合ったが、かれらはそれぞれが(後継者)としての覇権を争うこととなり、前276年まで続く 後継者戦争(ディアドコイ戦争)に突入する。 Episode アレクサンドロスの偽遺体 アレクサンドロス大王は自らゼウスの子と称していたが、バビロンで逝去して今や骸(むくろ)となって横たわっていた。 しかし側近の者たちが王位をめぐって内輪もめをしていたため、埋葬されぬままになっていた。 「既に世にない人間を土に隠すのは、人間に共通する自然の情が求めるところであるから、極貧の者であっても埋葬の礼は受けるものであるのに、アレクサンドロスは三〇日間も埋葬されずに放置されていたのである。 」 <アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p. 358> その時、アリスタンドロスという者に神霊がのりうつり、アレクサンドロスの遺骸を収めた土地は、至福の地となり、永久に滅ぼされることはないであろうと宣(のたま)わった。 それを聞いたディアドコイと言われた将軍たちは、おのれの支配地の安全を保障するために大王の遺体を自分のところに運んでいこうと願い、激しく争うことになった。 まずが遺体を手にいれ、エジプトのアレクサンドリアに安置した。 多くのマケドニア人は静観して動かなかったが、ペルディッカスという武将の一人だけはプトレマイオスに迫り、遺体の引き渡しを争った。 引用 プトレマイオスは次のようにしてペルディッカスの激しい追及をかわした。 アレクサンドロスにそっくりの似姿を作らせて、これに王の衣装を着せ、豪華な弔いの飾りつけをした。 さらに金、銀、象牙をほどこした豪奢な棺を作らせ、像をそれに納めてペルシア風の車の一台に安置した。 アレクサンドロスの本物の遺体は間に合わせの粗末な着付けをしただけで、人の通らぬ間道で先に送ってしまったのである。 ペルディッカスは偽の遺体と飾り立てた車を手にいれると、見事勝負に勝って賭けられていた賞品を獲得したような気になり、追跡をやめてしまった。 後になって騙されたことに気づいたが、その時はもう後を追うことができなかった。 <アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p. 359-360>.

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アレクサンドロス[大王](アレクサンドロス)とは

アレキサンダー 大王

カリスマ的で無情、天才で権力に餓えた、そして外交的でありながら闘争心が強いといった要素を合わせ持ったアレキサンダー大王は、「大王のためならどこまでも出向き命をもいとわない」という強力な関係を部下との間に築き上げ、歴史的な偉業を成し遂げたのです。 残念ながらアレキサンダー大王は、 「世界を統一する」という夢を果たさぬまま、32歳の頃に若くして亡くなっています。 しかし、彼がギリシャからアジアまで、広範囲に与えた文化的影響は非常に大きく、後に「 ヘレニズム時代 (アレキサンダーの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化融合が生じたアレクサンダー死後およそ300年の期間)」と呼ばれる新しい時代を築き上げました。 ちなみに、「 アレキサンダー」、「 アレクサンダー」、「 アレクサンドロス」という3つの表記がありますが、アレキサンダーとアレクサンダーは英語風の読み方、アレクサンドロスはギリシャ語風の読み方を表記したものという違いだけで、どれも同じ意味を持ちます。 (フィリッポス2世) その実の父フィリッボス2世は、息子アレクサンドロス3世には敵わないものの、自身も軍事に長けていました。 ペロポネソス半島北部に位置し、ギリシャの弱小国でしかなかったマケドニアを、 フィリッポス2世は驚異的なスピードで強国に押し上げ、当時の世界に君臨した強大な ペルシャ帝国を打ち倒すという野望を抱くまでに成長させたのです。 アレクサンドロス3世といくつかの重要な出会い ブケパロスとの出会い 12歳の時、ペラの宮殿に大きい野生の牡馬「 ブケパロス」が連れてこられます。 この馬は気性が非常に荒く、誰も乗りこなすことが出来ませんでした。 しかし、アレクサンドロス3世はブケパロスが自分の影に怯えていることに気づき、それを利用して 勇敢にもブケパロスを見事乗りこなすことに成功。 この出来事は、その後に世界的偉業を成す彼の片鱗を見せて周囲に驚きを与えただけでなく、父フィリッポスにさえ恐れを抱かせたと言われます。 ちなみに、ブケパロスはアレクサンドロス3世の戦友として、彼が亡くなる直前まで長いこと一緒に活躍していくことになります。 哲学者アリストテレスとの出会い そして、アレクサンドロスが13歳になると、父のフィリッポスは偉大な哲学者 アリストテレスを呼び寄せ、息子の教育係に任命します。 アリストテレスはアレクサンドロス3世の文学、科学、医学、そして哲学への興味を掻き立て、ここでの教育が、後々の国家運営や戦争における軍事的戦略策定などに役立ったことは間違いないでしょう。 また、この時に 一緒に学んだ学友たちが、後のアレクサンダー大王を支える将軍となっていきました。 カイロネイアの戦いにおいて若干18歳で初陣を飾る ビュザンティオンへ戦いに赴くため、父のフィリッポス2世がマケドニアの国内をアレクサンドロス3世に与えた時、彼はまだ若干16歳でした。 この戦いがアレクサンドロス3世にとっては 初めての戦争参加となっただけでなく、 見事勝利して初陣を飾ることとなったのです。 王に即位して「アレキサンダー大王」の伝説が幕を開ける 紀元前336年、ペルシャへの遠征を計画していた最中、 父フィリッポス2世が護衛のパウサニアスに 暗殺されてしまいます。 その結果、弱冠20歳のアレクサンドロス3世はマケドニアの国王に即位。 このとき彼は、政敵となる人物を一人残らず暗殺したといわれています。 さらにアレキサンダー大王は、ギリシャ北部で起こっていた独立派の反乱を鎮圧。 こうして国内の問題を一掃し、父親の野望を受け継いだアレキサンダーは、 マケドニアの世界征服への道を歩み始めていくのです。 小アジアの征服 グラニコス川の戦い 摂政に重臣アンティパロスを任命してマケドニア本国を任せたアレキサンダーは、自ら軍を率いてペルシャに向かいます。 彼の軍隊は、エーゲ海とマルマラ海のヘルスポントス海峡 (今日ではダーダネルス海峡と呼ばれている)を渡り、グラニコス川 (今日のビガ川)の河畔で、ペルシャ軍と対峙しました。 この グラニコス川の戦い (紀元前334年)では、アレキサンダー率いるマケドニア軍が勝利します。 (出典:) そこからアレキサンダー大王はさらに南方に向かい、アナトリア半島 (現在のトルコ)のリュディアの王都サルデスを征服。 しかし他のアナトリア半島の都市ミレトス、ミラース、ハリカルナッソスでは住民による抵抗運動が勃発。 特にハリカルナッソスの抵抗は強く攻略は困難を極めました。 ゴルディアスの結び目 なんとかハリカルナッソスを攻略すると、アレキサンダー大王は同じアナトリア半島にあってペルシャの支配下にあった ゴルディオンを占領。 紀元前333年の時でした。 ちなみに、このゴルディオンは後に「 ゴルディアスの結び目」という伝説の舞台となった場所。 その伝説とは、• ペルシャ軍: 10万前後• マケドニア軍: 4万以下 であったとされています。 アレキサンダーの軍は数でこそは劣っていましたが、経験と戦略&戦術的能力、そして意志の強さは負けていませんでした。 (出典:) その結果、戦闘が続いていくなかで、状況はマケドニア軍優位に傾いていきます。 そして、アレキサンダー側の勝利が確実なものとなった時、 ダレイオス3世は自らの妻と家族のことを全く顧みず、残された少数の兵士とともに逃亡を図ります。 このようなダレイオス3世の態度に失望したダレイオス3世の母親シシュガンビスは、ダレイオスを勘当し、代わりにアレキサンダー3世を養子として迎え、また、アレキサンダーとダレイオス3世の娘「ステタイラ2世」は後に結婚することになりました。 また、戦場に残されたダレイオス3世の家族はマケドニアの捕虜となったわけですが、 アレキサンダー大王は彼女達をとても丁重に扱ったと言われます。 一方で、イッソスの戦いの後、ダレイオス三世は講和を申し入れましたが、アレキサンダーはこの提案を退けています。 ティール包囲戦 イッソスの戦いの後、アレキサンダー大王は フェニキアと呼ばれた現在のシリアやレバノンの一部にまたがる地域に侵攻。 当時のフェニキアには反ペルシャの都市が多かったため、マラトスとアラドス、ビブロスとシドンといった都市を次々と支配下に置いていきます。 しかし、紀元前332年1月、同地域の都市 ティール(ティルス)が頑強に抵抗すると、アレキサンダー大王はこの重厚な砦に対して奇襲を仕掛けようとしますが、アレキサンダーは海軍を率いていなかったために、水に囲まれたティールに乗り込むことができませんでした。 (赤い部分がティール) そこで彼はまず、 ティールを長期間に渡って包囲し、その間にティールまで届く土手道(陸橋)を作るように命令。 これに対して、ティール側は何度もアレキサンダーの計画を阻止した結果、アレキサンダーは 艦隊がなければティール攻略は不可能であると悟ります。 そこで彼は最終的に、大きな艦隊を集め、紀元前332年6月、ティールの壁に向かって出港。 ついに、ティールを屈服させることに成功したのです。 アレキサンダー大王のエジプト征服 フェニキアを手中に収めたことで、アレキサンダー大王には エジプト征服への道が見えてきました。 一方でこの頃、ダレイオス三世は再度、講和を提案しますが、アレキサンダー大王はこれを無視してエジプトに向かいます。 しかし、エジプトへの道中、シリアとエジプトの間に位置している ガザにおいて抵抗され、ここでも再び、数週間に及ぶ長期的な作戦「 ガザ包囲戦 (紀元前332年10月)」を展開せざるを得なくなります。 そして、ガザを陥落さえるとアレクサンダー大王はついにエジプトへ侵攻して占領。 この土地に自らの名前にちなんだ都市「」を築きました (アレキサンダー大王は、各地に都市を築くとそのアレクサンドリアという名前を付けていった)。 ペルシャ軍: 20万前後 (10万未満という意見もある)• マケドニア軍: 47000前後 と、 イッソスの戦いの時以上に兵力の数には多きな開きがあったとされます。 (出典:) しかし、この戦いにおいてまたも稀代の戦術家としての才覚を示したアレキサンダー大王は、ダレイオスの裏をかく軍隊の動きを実現させ、もう少しで命を奪えるところまでダレイオスを追い詰めた結果、ダレイオスはまたも闘争。 アレキサンダーはダレイオスを追撃しようとしましたが、味方のパルメニアオンから救援を必死に要請されたため、ダレイオス追撃は後回しにしました。 そして、 ダレイオス3世は逃亡中に自らの部下によって殺害されたのです。 ちなみに、その後にダレイオスの遺体を見つけた時、アレキサンダー大王は大いに悲しんだと言われ、 王族の伝統に倣った葬儀をダレイオス3世のために執り行ったと言われます。 ペルシャ王アレキサンダーの誕生 紀元前330年、ダレイオス三世がいなくなった結果、ここに アケメネス朝ペルシャは崩壊し、 アレキサンダー大王は、ついに父フィリッポス2世からの悲願だったペルシャ帝国の王となりました。 しかし一方で、この時にペルシャのもう一人の指導者 ベッソス (ダレイオス三世を殺害した人物であると考えられている)も王位の継承を宣言。 アレキサンダーはこれを放っておくことはせず、執拗な追跡の末、ベッソスの軍は、アレキサンダーの友人でマケドニア軍の将軍として活躍した プトレマイオスに、ベッソスを差し出すことに合意。 ベッソスはその後に処刑され、政敵を排除したアレクサンドロスは晴れて「 ペルシャ帝国の全権を握る」こととなったのです。 ペルシャ王に即位してから少しの期間はアレキサンダーにとって、それまで一緒に戦ってきた仲間との亀裂を生じさせてしまった時期でもありました。 ペルシャの文化を積極的に取り入れようとする態度への反感 ペルシャに暮らす民衆達から信頼を勝ち取るために、 アレキサンダー大王はペルシャ風の服装を身に着け、また、ペルシャの宮廷の慣習である「プロスキュネーシス」を取り入れました。 これは相手の身分に応じて膝を着いたり、手にキスをしたりするといった礼儀作法のこと。 しかし マケドニア人の多くは、アレキサンダーのこのような変化、そして自らを神のように見せようとする姿勢を快く思わなかったのです。 彼らはペルシャ文化の実践を拒否し、なかには アレキサンダーの暗殺を企てる者まで現れました。 パルメニオンの殺害 疑心暗鬼に陥ったアレキサンダー大王は紀元前330年、側近であった フィロタスがアレクサンドロス暗殺計画の首謀者であると決めつけ、フィロタスを処刑。 その後、フィロタスの父でマケドニア軍の中では非常に有能な将軍として活躍した パルメニオンの殺害も命令。 パルメニオンは、アレキサンダーの命を受けた自らの友人3人に殺害されます。 クレイトス殺害 紀元前328年、アレキサンダーのもう一人の側近将校であったクレイトスが、悲劇的な最後を閉じます。 ペルシャ贔屓のアレキサンダーに対して痺れを切らしたクレイトスは、 泥酔してアレキサンダーに対して暴言を吐き、反抗的な態度を見せるようになりました。 そしてついにある日、この態度に我慢できなくなったアレキサンダーはカッとなり、 槍でクレイトスを突き刺して殺害してしまうのです。 これは計画されたものではなく、ある一瞬の怒りの爆発によるものでした。 ちなみに アレキサンダーは、酔った勢いで暴力的になることが多かったと考えられ、これはアレキサンダーが生涯抱えた問題の一つだと言われます。 中央アジアへの侵攻を開始 ペルシャ帝国を支配下においてひと段落ついたアレキサンダーは、東はまで、中央アジア方面への侵攻を開始していきます。 この中央アジアの侵攻においては、 ソグディアナという地域で大きな抵抗に遭遇します。 ソグディアナとは、現在のウズベキスタンの町「サマルカンド」を中心とした地域一体のことで、紀元前6世紀頃、アケメネス朝ペルシャによって併合されて以降、 ペルシャの地方州となっていました。 しかし、ソグディアナに住むソグド人を中心として人々は、 未だに「ベッソス」に対して忠誠を誓っていたため、アレキサンダーはこの地域を制圧するのにゲリラ戦を強いられるなど苦労したのです。 無理だと思われた絶壁を登って士気を失わせて降伏させた この ソグディアナ攻防戦 (紀元前327年)の中で追い詰められたソグディアナの人々は、「 要塞」へ逃げ込んで降伏を断固拒否し続けます。 しかし、アレキサンダーはこの絶壁を登ることが出来たら報酬を出すとして志願兵を募集。 アレキサンダーの軍隊には、過去にも崖登りの経験をしたことがある兵士達が何人もおり、その崖登りを成功させたのです。 この結果、 まさか絶壁を登ってくると思っていなかったソグディアナの人々は唖然とし、まだ戦えたのにも関わらず、士気を失ってついには降伏したのです。 ロクサネとの出会い ちなみに、ソグディアナの要塞へ逃げ込んだ人の中には ロクサネという女性がいました。 この ロクサナを見たアレキサンダーは、ロクサネに一目惚れしたと言われます。 そして、ロクサネがマケドニア人やペルシャ人とも異なる少数民族出身であるにも関わらず、 アレキサンダーは彼女と結婚。 以後、ロクサネはアレキサンダーの遠征へ常に付き従ったとされています。 アレキサンダー大王のインド遠征 紀元前327年、アレキサンダー大王は、インドのパンジャブ地方への遠征に出発。 道中、平和的にアレキサンダーへ忠誠を誓った民族もいましたが、逆に激しく抵抗した部族もいました。 アレキサンダー最後の主要な戦い「ヒュダスペス河畔の戦い」 紀元前326年、彼はヒュダスペス川 (インド北西部とパキスタン東部を流れる現在のジェルム川)の河畔で、その地方一帯の領主であったパウラヴァ族の王 ポロスに対峙。 ポロスの軍隊はアレクサンドロスに比べ経験では劣っていましたが、「 ゾウ」という秘密兵器を持っていました。 (出典:) そのため、 今までの戦いとは勝手が違い、マケドニア軍は苦戦。 雷雨の中で繰り広げられた激しい戦いの末に なんとかポロス軍を破りました。 しかしこの戦いで、アレクサンドロスの心を引き裂くような出来事が起こります。 愛馬ブケパロスが亡くなってしまったのです。 ブケパロスの死因が戦いで受けた傷であるのか、老齢による衰弱であるかは分かっていませんが、心を痛めたアレクサンドロスはこの地に新しい町を築き、その町は愛馬にちなんで「 ア レキサンドリア・ブーケファリア」と名付けられました。 ペルシャへ帰還することを決めたアレキサンダー大王 ヒュダスペス河畔の戦いの戦いの後、インド全土を征服したいと願うアレキサンダー大王は前進を続けていきます。 しかし、その道中で 戦い疲れた軍隊が進軍を拒否。 また、アレキサンダー自身も戦いの最中に幾度も命の危険にさらされてきたことから、彼の側近達はペルシャに戻るようにアレキサンダーを説得。 その結果、 アレキサンダーはインダス川を下ってペルシャの王都スーサに戻ることを決めます。 ペルシャ帝国の王都スーサへ戻ったアレキサンダー大王は、自らを頂点とした大帝国の繁栄には 、ペルシャ人とマケドニア人を融和させ、より多文化に寛容な民族となっていく必要があると考えたのでしょう。 紀元前324年初頭、部下達の多くにペルシャ貴族の女性達と結婚するように命じ、「 スーサの合同結婚式」が行われました。 一方で、マケドニア人の中には、「伝統的な文化や慣習をないがしろにしている」と考え、アレキサンダーへ反乱を起こすような者も出てきました。 対するアレキサンダーは反乱を起こしたマケドニア人将校達をクビにし、他の文化を受け入れる態度を率先して見せるためにも、 代わりにペルシャ人将校を採用したのです。 そして、これを見た軍隊はアレキサンダーを恐れ、反抗することはなくなりました。 面白いことに、 軍隊が自らに従うことになると、アレキサンダーはクビにした将校たちを再び重要な地位につけ、また盛大な仲直りの祝宴を開いたと言われています。 アレキサンダー大王の死 紀元前323年、アレキサンダーは広大な帝国の君主となっていました。 しかし同時期、 彼は親友の ヘファイスティオンを亡くし、大きな悲しみに包まれています (ヘファイスティオンはアレキサンダーの同性の恋人であったとも言われる)。 そして、この親友の死による悲しみを忘れるためか、アレキサンダーは世界征服の野望に向けてアラビア半島を征服しようと考えるようになっていきました。 しかし、 アレキサンダー大王がその夢を叶えることはありませんでした。 数々の戦闘を生き延びてきたアレキサンダーは、紀元前323年6月10日、 32歳の若さで亡くなってしまったのです。 アレキサンダー大王の死因ははっきりとはわかっていませんが、 アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)に関する3つの逸話 アレキサンダー大王の生涯を詳しく見てきましたが、最後に、彼に関するその他3つの逸話を簡単に紹介してきます。 その哲学者とは、ソクラテスの弟子の一人アンティステネスの弟子である「 ディオゲネス」。 (出典:) ある日、ギリシャの一地方「コリントス」へまだ王子であったアレクサンドロス3世が訪れた時、ディオゲネスが挨拶に来なかったため、アレクサンドロス自ら近づいて挨拶をし、 私は富を持ってるが、貴方に何かしてあげられることはないか? と尋ねると、ディオゲネスは「はい」と答え、 そこに立たれると日陰になるのでどいて下さい。 とだけ言いました。 アレクサンドロス3世は、ディオゲネスの返答と断り方に魅了され、 もし自分がアレクサンドロス3世でなかったらディオゲネスになりたい。 と言ったと伝えられています。 ちなみに一説には、このディオゲネスの言葉から学んだ「 虚栄心を捨てる態度」を思い出したことが、インドにおいてそれ以上の進軍を停止した動機の一つだとする話もあります。 一人の人物を記述した単独伝記• その中には、アレキサンダーについても記されており、 アレキサンダー大王の肌からは 最も好ましい香りが滲み出ていた。 彼の吐息と全身は、身につけていた衣服まで芳しい香りにするほどだった。 という記述が残っています。 ただし、アレキサンダー大王が亡くなって400年後に書かれたことを考えると、あくまでも想像でしかないとは思いますが。 そしてこれが、それまでの人類史において最大の規模となる帝国をたった十数年の間に築けた理由です。 ちなみに、アレキサンダーが戦いの中で採用した軍事的戦術や戦略は、未だに陸軍士官学校で教えられていると言われるほどです。 合わせて読みたい世界雑学記事• アレキサンダー大王は若くして亡くなってしまいましたが、彼が征服した地域の多くは古代ギリシャの影響を失うことなく留め、これによってヘレニズム文化が花開くことになりました。 また、アレキサンダーによって築かれた都市の中には、今日に至るまで重要な文化の中心地であり続けているものが存在しています。 このようなことから、アレキサンダー大王は、今でも史上最も強力で影響力の大きい指導者の一人であると考えられるのです。

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アレキサンダー大王の伝説 について調べてみた

アレキサンダー 大王

アレクサンドロス大王(Alexander the Great)の英語&和訳のおすすめ名言と人物像 アレクサンドロス大王の言葉-お気に入りBEST2 (1)Remember upon the conduct of each depends the fate of all. (あなたの行動は我々すべてに影響するというこを覚えておくべきだ。 ) (2)There is nothing impossible to him who will try. (挑戦を続ける限りあなたにできないことはないのだ。 空前絶後の大遠征で巨大帝国を築いたアレクサンドロス大王の生涯・功績・エピソード ・マケドニアの王として東方遠征しアケメネス朝ペルシアを滅亡 ・地中海からインダス川におよぶ広大な帝国を築き植民都市アレクサンドリアを各地に建設。 ・ギリシアと東方文化の融合に成功、ヘレニズム文化を成立 【数々の伝説をもつ世界最大の英雄】 、、、、ドイツのロンメル将軍、これら古今の英雄たちに影響を与えたと言われる人物がアレクサンドロス大王である。 エピソードの一部として14歳で誰の手にもおえなかった暴れ馬を手なづけたり、結び目をほどいた人物こそアジアを支配すると言い伝えのある「ゴルディアスの結び目」を一刀両断して解いたり。 またアリストテレスから学問を学ぶという教養人としての顔があるかと思えば、酒席で優秀な部下クレイトスを刺殺したりペルシアの都市ペルセポリスを報復として徹底的に破壊するなど冷徹な面も持つ。 【アレクサンドロス大王と哲学者ディオゲネス】 哲学者ディオゲネスは、人が幸福であるためには恥や欲といった自然に反するものに従ってはならないという考えから自ら大きな樽の中に済み、野良犬のような生活を送っていた。 あるとき日光浴をしていている最中にアレクサンドロス大王の訪問をうけた。 「何かのぞみがあれば申してみよ」という大王の問いかけにディオゲネスは「日陰になるからそこをどいてくれ」と答えた。 アレクサンドロスはこれを聞いて起こることはなく「私はアレクサンドロスでなければディオゲネスでありたい」とこたえた。 【その他】アレクサンドロス大王の師は哲学者である。 非商用利用の範囲内でご利用ください。 当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。 アレクサンドロス大王(Alexander the Great)の名言・格言 There is nothing impossible to him who will try. 挑戦を続ける限りあなたにできないことはないのだ。 - Orison Swett Mardenの本「A Book of Inspiration」より I am indebted to my father for living, but to my teacher for living well. 生を受けた事を父に感謝。 賢く生きる術を教えてくれた事を師に感謝。 I am not afraid of an army of lions led by a sheep; I am afraid of an army of sheep led by a lion. 私は一頭の羊に率いられたライオンの群れを恐れない。 しかし一頭のライオンに率いられた羊の群れを恐れる。 How great are the dangers I face to win a good name in Athens. 勝っているときこそ多くの危険が潜んでいる。 If I were not Alexander, I would be Diogenes. もし私がアレキサンドロスでなかったならば、私はディオゲネスでありたかったと思う。 I am dying from the treatment of too many physicians. 私を生かそうとする医者が多すぎて死にそうだ。 Do not pursue those who leave you. 去る者は去れ。 For my own part, I would rather excel in knowledge of the highest secrets of philosophy than in arms. 哲学の奥義はあらゆる武器より優れている。 Whatever possession we gain by our sword cannot be sure or lasting, but the love gained by kindness and moderation is certain and durable. 武力により得たものは長く続かないかもしれないが、慈愛と節度により得た愛は永遠である。 I do not pilfer victory. 私は勝利をくすねるような真似はしない。 Remember upon the conduct of each depends the fate of all. あなたの行動は我々すべてに影響するというこを覚えておくべきだ。 A tomb now suffices him for whom the whole world was not sufficient. 死んだ後、十分に良い世界だったと思えない人には墓が必要だ。 Most miserable wretch that I am! Why have I not learnt how to swim? 私はなんて惨めでかわいそうなんだ!なぜ泳ぎ方をまなばなかったのか? My father will anticipate everything. He will leave you and me no chance to do a great and brilliant deed. 私の父はすべてを予期するだろう。 あなたや私に輝かしい功績を残す余地はないだろう。 There are no more worlds to conquer! 征服する世界はもうこれ以上ない。 Keep my hands out so the people know the one who won the world had nothing in hand when he died. 私の体を埋葬し、記念碑は建てるな。 世界を征服した人間でも死んだら何も残らないということが人々がわかるように。 Without Knowledge, Skill cannot be focused. Without Skill, Strength cannot be brought to bear and without Strength, Knowledge may not be applied. 知識なしではスキルは発揮できない。 スキルなしでは力は生み出せない。 力なしでは知識は応用できない。 結局のところ、最後に重要なのはあなたが何をやってきたかということです。 I would rather live a short life of glory than a long one of obscurity. 私は、はっきりしない長い人生より栄光の短い人生を生きるだろう。 With the right attitude, self imposed limitations vanish. 正しい態度で臨めば、自分に課した制限は消滅する。 True love never has a happy ending, because there is no ending to true love. 真の愛にハッピーエンドはない。 なぜなら真の愛に終わりはないからだ。

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