艦 これ ハーメルン。 加賀「これは暴力であっても指導です。愛情表現です」

軽巡洋艦

艦 これ ハーメルン

概要 [ ] 軽巡洋艦はの後継として登場した、火砲を主兵装とし、軽度な舷側を施した比較的小型のをいう。 日本語では軽巡と省略される場合もある。 「軽巡洋艦」とは「軽装甲巡洋艦」( Light Armoured Cruiser)の略であり、後にに発達したと対置される。 その名前から軽巡洋艦と対をなす( Heavy Cruiser)は、後のの結果として軽巡洋艦から派生したものである。 世界共通の「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別する基準が生まれたのは後述するにおいて以降であり、それまでは各国海軍が独自の基準で「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別していた(日本における一等巡洋艦と二等巡洋艦の区別においてもしかりである)か、あるいは区別がなく単に「巡洋艦」であった。 歴史 [ ] 軽装甲巡洋艦の登場 [ ] 艦船用機関の出力が乏しかった19世紀には、小型の戦闘艦に装甲を施すことは困難であり、装甲を備えた比較的大型のと、舷側装甲の代わりに機関室の上の甲板を装甲して(防護甲板という)、舷側防御は石炭庫によって代用させる比較的小型のが別個に建造された。 その後20世紀に入り、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって機関の高出力化、および石炭庫による防御の非現実化という状況が発生したため、舷側に軽度の装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場する。 これが軽装甲巡洋艦、すなわち軽巡洋艦である。 この定義に基づく艦はイギリスでは1910年に竣工した、アメリカでは1908年に竣工した以降であるが、本格的な軽巡洋艦のスタイルを決定づけたのはイギリスの(1914年竣工)である。 アリシューザ級は常備排水量はわずか3,750トンに過ぎないが、水線部に最大3インチ(76mm)の装甲を施しており、石油専焼缶による蒸気タービン推進で28. 5ノットの高速を発揮して「艦隊の目」としての地位を確立した。 「軽装甲巡洋艦」の名の通り、軽度だが装甲を備える艦が軽巡洋艦である。 は排水量・艦砲の口径ともに装甲巡洋艦に匹敵する大型艦であるが、装甲厚はアリシューザ級と当程度であり、建造当初は軽巡洋艦として分類された。 軍縮条約と軽巡洋艦 [ ] 巡洋艦の位置づけは第一次世界大戦後の軍縮条約によって大きく変化した。 1921年のは主力艦 および の保有・建造の制限を主目的とし、を10,000トン以下で砲口径8インチ 203mm 以下のものと定義して保有制限の対象外に置いた。 しかし、このことが巡洋艦に準主力艦としての地位を与える結果となり、今度は、基準排水量10,000トンと砲口径8インチ 203mm の上限一杯の巡洋艦 といわれる の建艦競争が始まることとなった。 これをさらに制限しようとしたのが1930年のである。 ロンドン条約では、砲口径6. 1インチ 155mm 超過8インチ 203mm 以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6. 1インチ 155mm 以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と定義した。 以後、前者を Heavy Cruiser 、後者を軽巡洋艦 Light Cruiser とする呼称が一般的となった。 どちらの場合もワシントン条約と同じく基準排水量10,000トン以下とされた。 概要で述べた通り、元来、軽巡洋艦と装甲巡洋艦が対をなす存在であった。 しかし、軍縮条約の頃には装甲巡洋艦は過去の艦種となり、軽巡洋艦と重巡洋艦が対をなす存在となった。 ただし、軽巡洋艦と重巡洋艦を区分する際の基準が砲口径のみであったため、その名に反して、軽巡洋艦の方が「重く」、重巡洋艦の方が「軽い」場合もある。 事実、日・米・英の三ヶ国が基準排水量10,000トンの上限一杯になるように建造した大型の軽巡洋艦は一部の重巡洋艦を基準排水量で凌駕していた。 また、日本では155mm砲装備の軽巡洋艦として他国に通告して建造開始した艦において、その計画段階から条約脱退後は203mm砲に換装することが予定されていたものがあり、この換装予定は機密事項であった。 は、これに従い155mm三連装主砲塔を持つ姿で竣工し、条約脱退後に203mm連装砲に換装した。 は、建造途中に条約脱退したため、竣工時点で203mm連装砲を装備した。 どちらにおいても日本は203mm連装砲への換装を他国に通告しておらず、公式の分類上は第二次世界大戦終戦まで軽巡洋艦 二等巡洋艦 であり続けた。 第二次世界大戦後 [ ] 後、誘導の発達とともに、当時まだ大型だったミサイル装置のプラットフォームとして多くの重巡洋艦・軽巡洋艦が転用され、となった。 そのため、主砲の意義も相対的に低下した。 その後、新規に建造される巡洋艦のほとんどはミサイル巡洋艦となり、主砲口径によって定義される「軽」巡洋艦という艦種は自然消滅していった。 これと同時に巡洋艦との区別もあいまいになり、例えばを元にミサイル装備を強化した派生型がとして巡洋艦扱いされる事態も生じている。 各国の軽巡洋艦 [ ] 日本 [ ] 日本の軽巡洋艦は来るべき艦隊決戦の際に水雷戦隊を率いる旗艦として戦うことを主目的とした点に特徴がある。 みずからも水雷戦に加わるため魚雷の発射能力が重視された。 期にいわゆるが多数整備されたあと、第二次大戦期まで建造が途切れた。 特異な存在として潜水戦隊旗艦として計画された大淀、重巡洋艦の役割を持ちながら条約の制限により軽巡洋艦として計画された最上型、利根型がある。 艦名はいずれも川の名である。 太平洋戦争開戦時には5500トン型各艦は旧式艦になりつつあり、また水雷戦隊の戦術として「夜陰に乗じて戦艦を中心とする敵主力艦隊に肉薄を図り、最初に接敵するであろう敵の護衛部隊は主砲火力をもって制圧した後に主力に魚雷攻撃を行う」と転じたため、主砲火力を強化した阿賀野型の建造を行った。 ちなみに日本海軍の正式な分類では、軽巡洋艦ではなく二等巡洋艦(対して重巡洋艦は一等巡洋艦)である。 2隻(1919年):1番艦の竣工年(以下同じ)• 5隻(1920年)• 6隻(1922年)• 3隻(1924年)• (1923年)• 4隻(1942年):引き続き水雷戦を主眼として設計・建造されたが、既にとが主力兵器の座にある時代に移り変わっており、艦隊として新型艦に求める能力は敵航空機の脅威から艦隊を守る防空能力であって阿賀野型は実情にそぐわない艦となってしまった。 詳細は。 (1943年)• 1隻(1931年):海軍が建造した軽巡洋艦「」、「」の2隻は1937年に大日本帝国海軍に鹵獲され、それぞれ「五百島」、「八十島」と改名し、として運用された。 1944年、2隻は軽巡洋艦に変更される予定であったが、五百島は直前に戦没し、八十島のみが大日本帝国海軍所属の軽巡洋艦として運用された。 4隻(1935年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、203mm砲に換装後も公式には最後までそのままだった。 :ボイラー数の変更があった。 2隻(1938年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として計画され、203mm砲を装備して竣工後も公式には最後までそのままだった。 3隻(1940年)• 香取 イギリス [ ] 海洋帝国イギリスではの保護や通商路の確保、などに多くの巡洋艦を必要とし、第一次世界大戦までに計画されただけでも15クラスを数える。 軍縮条約後は、イギリス海軍は海外権益の保護や通商確保のために必要な隻数を揃えるために他国と比べて小型の船体に最小限の武装を載せたタイプを整備していたが、日米の建艦競争により軽巡洋艦の大型化・重武装が始まり、イギリスもそれに追従したために膨れ上がるコストと、国力の衰退による予算難のギャップに苦しむこととなった。 5隻(1910年)• 4隻(1911年)• 6隻(1912年)• 4隻(1914年)• 8隻(1914年)• 6隻(1914年):以降、ケープタウン級までC級ともいう。 2隻(1915年)• 4隻(1915年)• 2隻(1916年)• 4隻(1917年)• 5隻(1919年)• 5隻(1917年)• 5隻(1918年)• 12隻(1918年):D級ともいう。 2隻(他1隻建造中止)(1926年):E級ともいう。 5隻(1933年):以降、条約型• 3隻(1936年)• 4隻(1935年)• 5隻(1937年)• 3隻(1938年)• 2隻(1939年)• 11隻(1940年):以降、条約明け後• 8隻(1940年)• 3隻(1943年)• 5隻(1943年)• 2隻(1944年)• 4隻(他2隻建造中止)(1945年) アメリカ合衆国 [ ] アメリカ海軍の軽巡洋艦は分類記号 CLを持つ。 CruserのCを頭に、LightのLを2番目につけた略号である。 の記号CAは当初に割り当てられ、これはCLとは別系統の番号が振られていたが、1931年(すなわち)以降はCLと一連の番号が振られている。 なお、艦名は都市名に由来する。 3隻(1908年):当初は偵察巡洋艦CS• 10隻(1923年)• 7隻(1937年):条約型• 2隻(1939年):条約型、ブルックリン級の小改良。 11隻(1941年):条約型、対空射撃能力を持つ127mm両用砲を主砲として16門(中期以降建造艦は復元性維持のため12門に減)持ち、防空巡洋艦として知られる。 27隻(他3隻建造中止、9隻として完成)(1942年)• 2隻(他11隻建造中止)(1945年)• 2隻(他8隻建造中止)(1948年)• スヴェトラーナ級チェルヴォーナ・ウクライィーナ ソビエト連邦 [ ] 旧艦艇の多くを継承したでは、が形成された末にスヴェトラーナ級の建造継続が決定されるも、結局3隻が巡洋艦として完成したに留まった。 しかし、になると各国で優秀な巡洋艦が建造されるようになり、ソ連でもその必要性が認められるようになった。 こうしてイタリアの軽巡洋艦をもとに設計されたのが、ソ連最初の新設計艦となる(キーロフ級)であった。 ソ連では正式には巡洋艦に軽重の類別は設けていなかったが、キーロフ級はその設計から軽巡洋艦と呼ばれることが一般的である。 これは元来の意義での軽巡洋艦であり、ソ連が参加しなかったロンドン海軍軍縮条約の基準は考慮されていない。 18cm砲を搭載しているという点に着目すれば、条約の基準に照らして「重巡洋艦」と呼ばれることになる。 その後の建艦計画はの影響で延び延びになり、十分に巡洋艦が整備されるようになったのは戦後のことであった。 それもにミサイル巡洋艦が整備されることになると計画が縮小された。 建造された巡洋艦のうち、は各種試験艦や艦隊となる指揮巡洋艦に改修されるなどしてソ連末期まで現役に留まった。 しかし、それらもの影響からすべて退役となった。 クラースヌィイ・クルィーム• 4隻(18cm主砲搭載、内2隻は26-bis型へ計画変更)(1935年)• 4隻(18cm主砲搭載)(1936年)• 17隻(未完成)(1939年)• 17隻(内7隻が起工、5隻が完成)(1950年)• 21隻(内14隻が完成)(1952年)•

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西暦2000年9月13日 セカンドインパクト発生 人類はこの大災害により、半分にまでその数を減らした。 当初は隕石によるものと報道されたが、のちに使徒が関係したことが判明する。 2010年 特務機関NERV結成 特務機関NERVは国連直属の組織であり、使徒に対抗すべく結成された。 前身は人工進化研究所、およびその発展としてのGEHIRN。 結成当時、民間に対してはその存在は秘匿されたが、2017年に公表される。 2015年6月22日〜2016年 具体的にいつを終戦とするかは専門家の間でも意見が割れている 使徒戦役勃発、ニアサードインパクトをもって幕を閉じる。 2016年3月1日 ニアサードインパクトの責任はサードチルドレン・碇シンジにあるものとされ、NERVは当時生死不明であった彼を忌まわしき子《アブノレント・チルドレン》と呼称、国際的なネガティブキャンペーンを展開する。 この情報操作は当時司令及び副司令であった碇ゲンドウ及び冬月コウゾウの意向により行われた。 これにはニアサードインパクトによる混乱 ニアサードインパクトによる直接的な人的被害がなかったことに留意されたい による、セカンドインパクト後において勃発したのと同様の紛争や軍事衝突を回避する為に、使徒に代わる共通の敵を用意する意図があった、とされているが、後述する人類補完計画への批判を封じる意図もあった、との指摘もある。 これが後のNERVの解体、及びWILLEの設立の遠因となる。 これに関しては後述。 2017年2月28日〜3月2日 戦略自衛隊海上護衛第六部隊が正体不明の生命体と交戦、多大な損害を出した末敗北、撤退 「さながら軍艦の怨霊だった」 呉島准尉、階級は当時 同日を皮切りに類似した事件が世界各国で頻発、日本政府他国に先駆けて正体不明の生命体を「深海に棲息する軍艦の形状を有する特異海洋金属性有機生命体」、これを略し「深海棲艦」と呼称し、対策に乗り出す。 一方、ほぼ同じタイミングで、自らを軍艦の生まれ変わりであると主張する少女型の正体不明生命体が各地で確認され、解析により深海棲艦と類似した身体構成を持つことが判明。 これを「艦娘」 かんむす、と読む と呼称することになる。 身内だけの呼び方だったのだが、のちに公式文書で使用される。 深海棲艦に対抗しうる唯一の存在が艦娘であることが判明してくる。 このころ、艦娘の亜種であると推測される小型の正体不明の生命体も確認され、妖精と呼ばれる。 これまた身内だけの呼び方だったのだが、のちに公式文書で使用される。 2017年4月23日 国際特異海洋脅威対策推進計画 略称ISOMCAP が発足 深海棲艦に対抗するための国連直属の特務機関であり、艦娘や提督の管理及び保護、作戦行動時の際の各国間の利害調整、また艦娘以外の深海棲艦対策の立案及び実用化 現時点で現実的な実行策はなく、未だ艦娘に頼らざるを得ないことは甚だ残念である 、などを行う。 いち早く深海棲艦及び艦娘についての対策に乗り出した日本が主導し、WILLE 当時はNERV に次いで日本主導の特務機関となった。 2017年 忌まわしき子《アブノレント・チルドレン》ことサードチルドレン・碇シンジを深海棲艦の元凶と断ずる武装組織・ 天の聖刃 へヴンエッジ の活動が活発化する。 元々は碇シンジの人権剥奪などを要求する過激派思想団体であった。 後に歴史改変をも目論んでいたことが発覚する。 設立は2016年。 2016年〜2018年 当時NERV作戦部長であった葛城ミサトを中心に、NERV離反及び新組織WILLEの設立が進められ、独立を果たす。 深海棲艦という新たなる脅威の存在により旧NERVのネガティブキャンペーンの表向きの理由が成立しなくなったこと、及び旧NERVによる人類補完計画の詳細が明らかになったことが、かねてより碇-冬月体制に反感を抱いていた職員やスタッフの後押しとなったようである。 この時ほぼ全職員が離反、特に当時生存していたチルドレン全員がWILLEへの異動を自ら志願したことで、NERVは実質瓦解、後に解体処分となる。 2018年〜 中国、艦娘に代わる戦闘機構を開発したと発表しISOMCAP脱退へと向けた動きが活発化するも、ロシアに制止され脱退運動は沈静化する。 しかしながら、現在も中国は艦娘システムの利用を行っていない。 2018年 使徒戦役戦勝3周年記念式典にて、死亡していたと思われていた加持リョウジが人類補完計画の存在を公表。 これを受け、碇ゲンドウ及び冬月コウゾウは人道に対する罪で国際裁判にかけられ、終身刑を言い渡される。 また、SEELEの存在についても明らかとなり、国際情勢がさらなる混乱を見せる。 2021年〜2022年 第二次使徒戦役勃発。 次世代チルドレン、 協和音の要石 コンコード・キーストーン の活躍により、使徒との講和、共存への道を拓く。 2022年 サードチルドレン・碇シンジの生存が公表される。 WILLE座長 司令、ではNERVの後続、というイメージを持たれる、という懸念から検討を重ねるうちに迷走し、結局リーダーであった葛城ミサトのボツ案が通ってしまった 葛城ミサトが碇シンジに謝罪。 2022年 天の聖刃 へヴンエッジ による碇シンジ襲撃事件発生、しかし彼の秘書艦を務めていた時雨により事なきを得る。 2023年〜 時空管理局の助力もあり、 天の聖刃 へヴンエッジ の過去改変計画阻止に成功。 天の聖刃 へヴンエッジ はその後規模を縮小していく。 現在までに使徒、及び深海棲艦という脅威が我々を脅かしてきたが、しかし我々を大いに苦しめたのはむしろ、我々自身の恐怖、無知、そして傲慢であったことを忘れてはならない。 また、付け加えるならば、我々は万難を排する為に自らを捧げた多くの尽力者の存在を忘れず、自らもまた明日への尽力者たるべく前進を続けねばならないだろう。 希望を掴まんとする足掻きが正当に評価され、明日への駆動の礎となることを祈る。 (2025年6月6日、国連公開文書「21世紀の侵略的脅威、またそれに伴う国際情勢の混乱についての概観、及び今後の展望」) …………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「ほんと、大変だったよね……まだまだ終わりじゃ、ないけどさ」 時に2025年6月6日、京都にて。 青年は一人、資料をそっと閉じると、ため息交じりにそう言った。 「さてと、そろそろ夕ご飯にしよっと…あっ、鳳翔さん、今からそっちに行くからっ」 「提督、お疲れ様です」 「でももうちょっと待ってて、遠征命令出しておかないと…この前の大規模作戦でボーキ枯渇させちゃったから」 「そうですね」 これは、一人の青年 ちなみに碇シンジという と、ざっと200隻……否、200人の「彼女」たちの、物語で…………は、ない。 確かにそれはそうなのだが……。 むしろこう言うべきなのだろう。 希望の駆動者たちが、ひと仕事終えた、後日談、と。

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艦隊これくしょん~艦これ~ 宇宙戦域支配艦「近江」の伝説(仮)

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概要 [ ] 軽巡洋艦はの後継として登場した、火砲を主兵装とし、軽度な舷側を施した比較的小型のをいう。 日本語では軽巡と省略される場合もある。 「軽巡洋艦」とは「軽装甲巡洋艦」( Light Armoured Cruiser)の略であり、後にに発達したと対置される。 その名前から軽巡洋艦と対をなす( Heavy Cruiser)は、後のの結果として軽巡洋艦から派生したものである。 世界共通の「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別する基準が生まれたのは後述するにおいて以降であり、それまでは各国海軍が独自の基準で「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別していた(日本における一等巡洋艦と二等巡洋艦の区別においてもしかりである)か、あるいは区別がなく単に「巡洋艦」であった。 歴史 [ ] 軽装甲巡洋艦の登場 [ ] 艦船用機関の出力が乏しかった19世紀には、小型の戦闘艦に装甲を施すことは困難であり、装甲を備えた比較的大型のと、舷側装甲の代わりに機関室の上の甲板を装甲して(防護甲板という)、舷側防御は石炭庫によって代用させる比較的小型のが別個に建造された。 その後20世紀に入り、タービンや水管式ボイラーの発達、石油燃料の一般化などによって機関の高出力化、および石炭庫による防御の非現実化という状況が発生したため、舷側に軽度の装甲を施した軍艦が防護巡洋艦に代わって登場する。 これが軽装甲巡洋艦、すなわち軽巡洋艦である。 この定義に基づく艦はイギリスでは1910年に竣工した、アメリカでは1908年に竣工した以降であるが、本格的な軽巡洋艦のスタイルを決定づけたのはイギリスの(1914年竣工)である。 アリシューザ級は常備排水量はわずか3,750トンに過ぎないが、水線部に最大3インチ(76mm)の装甲を施しており、石油専焼缶による蒸気タービン推進で28. 5ノットの高速を発揮して「艦隊の目」としての地位を確立した。 「軽装甲巡洋艦」の名の通り、軽度だが装甲を備える艦が軽巡洋艦である。 は排水量・艦砲の口径ともに装甲巡洋艦に匹敵する大型艦であるが、装甲厚はアリシューザ級と当程度であり、建造当初は軽巡洋艦として分類された。 軍縮条約と軽巡洋艦 [ ] 巡洋艦の位置づけは第一次世界大戦後の軍縮条約によって大きく変化した。 1921年のは主力艦 および の保有・建造の制限を主目的とし、を10,000トン以下で砲口径8インチ 203mm 以下のものと定義して保有制限の対象外に置いた。 しかし、このことが巡洋艦に準主力艦としての地位を与える結果となり、今度は、基準排水量10,000トンと砲口径8インチ 203mm の上限一杯の巡洋艦 といわれる の建艦競争が始まることとなった。 これをさらに制限しようとしたのが1930年のである。 ロンドン条約では、砲口径6. 1インチ 155mm 超過8インチ 203mm 以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6. 1インチ 155mm 以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と定義した。 以後、前者を Heavy Cruiser 、後者を軽巡洋艦 Light Cruiser とする呼称が一般的となった。 どちらの場合もワシントン条約と同じく基準排水量10,000トン以下とされた。 概要で述べた通り、元来、軽巡洋艦と装甲巡洋艦が対をなす存在であった。 しかし、軍縮条約の頃には装甲巡洋艦は過去の艦種となり、軽巡洋艦と重巡洋艦が対をなす存在となった。 ただし、軽巡洋艦と重巡洋艦を区分する際の基準が砲口径のみであったため、その名に反して、軽巡洋艦の方が「重く」、重巡洋艦の方が「軽い」場合もある。 事実、日・米・英の三ヶ国が基準排水量10,000トンの上限一杯になるように建造した大型の軽巡洋艦は一部の重巡洋艦を基準排水量で凌駕していた。 また、日本では155mm砲装備の軽巡洋艦として他国に通告して建造開始した艦において、その計画段階から条約脱退後は203mm砲に換装することが予定されていたものがあり、この換装予定は機密事項であった。 は、これに従い155mm三連装主砲塔を持つ姿で竣工し、条約脱退後に203mm連装砲に換装した。 は、建造途中に条約脱退したため、竣工時点で203mm連装砲を装備した。 どちらにおいても日本は203mm連装砲への換装を他国に通告しておらず、公式の分類上は第二次世界大戦終戦まで軽巡洋艦 二等巡洋艦 であり続けた。 第二次世界大戦後 [ ] 後、誘導の発達とともに、当時まだ大型だったミサイル装置のプラットフォームとして多くの重巡洋艦・軽巡洋艦が転用され、となった。 そのため、主砲の意義も相対的に低下した。 その後、新規に建造される巡洋艦のほとんどはミサイル巡洋艦となり、主砲口径によって定義される「軽」巡洋艦という艦種は自然消滅していった。 これと同時に巡洋艦との区別もあいまいになり、例えばを元にミサイル装備を強化した派生型がとして巡洋艦扱いされる事態も生じている。 各国の軽巡洋艦 [ ] 日本 [ ] 日本の軽巡洋艦は来るべき艦隊決戦の際に水雷戦隊を率いる旗艦として戦うことを主目的とした点に特徴がある。 みずからも水雷戦に加わるため魚雷の発射能力が重視された。 期にいわゆるが多数整備されたあと、第二次大戦期まで建造が途切れた。 特異な存在として潜水戦隊旗艦として計画された大淀、重巡洋艦の役割を持ちながら条約の制限により軽巡洋艦として計画された最上型、利根型がある。 艦名はいずれも川の名である。 太平洋戦争開戦時には5500トン型各艦は旧式艦になりつつあり、また水雷戦隊の戦術として「夜陰に乗じて戦艦を中心とする敵主力艦隊に肉薄を図り、最初に接敵するであろう敵の護衛部隊は主砲火力をもって制圧した後に主力に魚雷攻撃を行う」と転じたため、主砲火力を強化した阿賀野型の建造を行った。 ちなみに日本海軍の正式な分類では、軽巡洋艦ではなく二等巡洋艦(対して重巡洋艦は一等巡洋艦)である。 2隻(1919年):1番艦の竣工年(以下同じ)• 5隻(1920年)• 6隻(1922年)• 3隻(1924年)• (1923年)• 4隻(1942年):引き続き水雷戦を主眼として設計・建造されたが、既にとが主力兵器の座にある時代に移り変わっており、艦隊として新型艦に求める能力は敵航空機の脅威から艦隊を守る防空能力であって阿賀野型は実情にそぐわない艦となってしまった。 詳細は。 (1943年)• 1隻(1931年):海軍が建造した軽巡洋艦「」、「」の2隻は1937年に大日本帝国海軍に鹵獲され、それぞれ「五百島」、「八十島」と改名し、として運用された。 1944年、2隻は軽巡洋艦に変更される予定であったが、五百島は直前に戦没し、八十島のみが大日本帝国海軍所属の軽巡洋艦として運用された。 4隻(1935年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、203mm砲に換装後も公式には最後までそのままだった。 :ボイラー数の変更があった。 2隻(1938年):二等巡洋艦(軽巡洋艦)として計画され、203mm砲を装備して竣工後も公式には最後までそのままだった。 3隻(1940年)• 香取 イギリス [ ] 海洋帝国イギリスではの保護や通商路の確保、などに多くの巡洋艦を必要とし、第一次世界大戦までに計画されただけでも15クラスを数える。 軍縮条約後は、イギリス海軍は海外権益の保護や通商確保のために必要な隻数を揃えるために他国と比べて小型の船体に最小限の武装を載せたタイプを整備していたが、日米の建艦競争により軽巡洋艦の大型化・重武装が始まり、イギリスもそれに追従したために膨れ上がるコストと、国力の衰退による予算難のギャップに苦しむこととなった。 5隻(1910年)• 4隻(1911年)• 6隻(1912年)• 4隻(1914年)• 8隻(1914年)• 6隻(1914年):以降、ケープタウン級までC級ともいう。 2隻(1915年)• 4隻(1915年)• 2隻(1916年)• 4隻(1917年)• 5隻(1919年)• 5隻(1917年)• 5隻(1918年)• 12隻(1918年):D級ともいう。 2隻(他1隻建造中止)(1926年):E級ともいう。 5隻(1933年):以降、条約型• 3隻(1936年)• 4隻(1935年)• 5隻(1937年)• 3隻(1938年)• 2隻(1939年)• 11隻(1940年):以降、条約明け後• 8隻(1940年)• 3隻(1943年)• 5隻(1943年)• 2隻(1944年)• 4隻(他2隻建造中止)(1945年) アメリカ合衆国 [ ] アメリカ海軍の軽巡洋艦は分類記号 CLを持つ。 CruserのCを頭に、LightのLを2番目につけた略号である。 の記号CAは当初に割り当てられ、これはCLとは別系統の番号が振られていたが、1931年(すなわち)以降はCLと一連の番号が振られている。 なお、艦名は都市名に由来する。 3隻(1908年):当初は偵察巡洋艦CS• 10隻(1923年)• 7隻(1937年):条約型• 2隻(1939年):条約型、ブルックリン級の小改良。 11隻(1941年):条約型、対空射撃能力を持つ127mm両用砲を主砲として16門(中期以降建造艦は復元性維持のため12門に減)持ち、防空巡洋艦として知られる。 27隻(他3隻建造中止、9隻として完成)(1942年)• 2隻(他11隻建造中止)(1945年)• 2隻(他8隻建造中止)(1948年)• スヴェトラーナ級チェルヴォーナ・ウクライィーナ ソビエト連邦 [ ] 旧艦艇の多くを継承したでは、が形成された末にスヴェトラーナ級の建造継続が決定されるも、結局3隻が巡洋艦として完成したに留まった。 しかし、になると各国で優秀な巡洋艦が建造されるようになり、ソ連でもその必要性が認められるようになった。 こうしてイタリアの軽巡洋艦をもとに設計されたのが、ソ連最初の新設計艦となる(キーロフ級)であった。 ソ連では正式には巡洋艦に軽重の類別は設けていなかったが、キーロフ級はその設計から軽巡洋艦と呼ばれることが一般的である。 これは元来の意義での軽巡洋艦であり、ソ連が参加しなかったロンドン海軍軍縮条約の基準は考慮されていない。 18cm砲を搭載しているという点に着目すれば、条約の基準に照らして「重巡洋艦」と呼ばれることになる。 その後の建艦計画はの影響で延び延びになり、十分に巡洋艦が整備されるようになったのは戦後のことであった。 それもにミサイル巡洋艦が整備されることになると計画が縮小された。 建造された巡洋艦のうち、は各種試験艦や艦隊となる指揮巡洋艦に改修されるなどしてソ連末期まで現役に留まった。 しかし、それらもの影響からすべて退役となった。 クラースヌィイ・クルィーム• 4隻(18cm主砲搭載、内2隻は26-bis型へ計画変更)(1935年)• 4隻(18cm主砲搭載)(1936年)• 17隻(未完成)(1939年)• 17隻(内7隻が起工、5隻が完成)(1950年)• 21隻(内14隻が完成)(1952年)•

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