名鉄 三河 線 事故。 【運転見合わせ】名鉄三河線(刈谷市~碧南) 三河高浜駅~高浜港駅で人身事故が発生・・・現地の状況がtwitterで拡散される

名鉄 三河 線 事故

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名鉄 三河線 海 の LEカー へ へ 名鉄三河線・碧南~吉良吉田16. 4kmは2004 平成16 年4月1日に廃止となりました。 三河線は、三河鉄道により開業した路線で、1914 大正3 年2月5日に刈谷新~大浜港 現・碧南 で開業、その後路線を南北に延伸していきました。 碧南~吉良吉田の歴史は下記の通りです。 1926 T15. 1 三河鉄道・大浜港 現・碧南 ~神谷 後の松木島 開通 1928 S3. 25 神谷~三河吉田 現・吉良吉田 位置は少し異なる 開通 1941 S16. 1 三河鉄道は名鉄と合併 1990 H2. 1 三河線・碧南~吉良吉田をLE化・ワンマン化 2004 H16. 30、「名古屋」 S41. 30発行より。 19 1914 T3. 5大浜港駅開業、1954 S29. 貨物列車のスジを青線でなぞりました。 このダイヤで三河線海の貨物列車は、刈谷~三河一色1往復 上図青線 、刈谷~新川町1往復、刈谷~碧南2往復が設定されていました。 また当時の三河線海は知立~重原を除きタブレット閉塞式で、タブレット交換駅 閉塞の境界 は、重原~新川町の全駅と碧南・三河平坂・三河一色・吉良吉田駅で、貨物取扱い駅は刈谷~碧南の各駅 刈谷市・新須磨を除く と三河平坂・三河一色でした。 ダイヤを見ると太線が急行で、知立~碧南に運行され、途中停車駅は刈谷市・三河高浜・高浜港・北新川・新川町でした。 その他の通過駅では走行中に運転士が運転台の窓から顔と手を出してタブレットの授受を行っていました。 運転台の後ろで見ながらスゴイ!と思ったのですが写真を撮っていないのを悔やんでいます。 19 貨物扱いが盛んだった頃の碧南駅構内を南 玉津浦方 から見ました。 この当時、西三河の特産品である金物・瓦製品・味醂・漬物・乾麺など1日90tの貨物扱い量があったと言うことです。 19 碧南駅構内を北 新須磨方 から見ました。 中央にデキ400形も停車中で、貨物輸送が盛んだった様子がわかります。 三河線・海の刈谷~碧南間のほとんどの駅で貨物扱いをしていて、最初に三河線に乗ったときは驚きました。 しかし駅構内の全景を撮ったのは碧南駅だけです。 もっと各駅で貨物扱いしていた駅の風景を撮っておけばよかったと悔やんでいます。 11 1981 昭和56 年11月から、碧南~吉良吉田間は、両運転台の800形単行で運転されるようになりました。 1番線には知立~碧南折り返しのHL車3730系、2番線には碧南~吉良吉田折り返しの800形単行が停車中です。 12 1990 平成2 年7月から、碧南~吉良吉田間は、キハ20形LEカーの運転が始まり、同時にワンマン化されました。 12 Nさん撮影 三河旭駅は、矢作川橋梁の最寄り駅でしたから、鉄橋で写真を撮る場合この駅で下車しました。 撮影が終わって、この碧南行きキハ20形に乗ります。 13 Nさん撮影 碧南~吉良吉田の廃止が迫った頃です。 「ご愛顧 ありがとうございました」の看板がついていました。 12 三河線 海 随一の撮影ポイント・矢作川橋梁を渡るキハ20形です。 全長423. 9mで、名鉄の橋梁の中では本線の木曽川橋梁 木曽川堤~笠松 484. 5mに次ぐ2番目の長さでした。 橋脚のスパンはこちらの方が短いので橋桁の数では勝っています。 橋桁に1~21の番号が振ってあり、21スパンの見応えのある橋梁でした。 14 矢作川橋梁です。 私が三河線・海の廃止区間で撮った写真は、駅撮りを除けば、この鉄橋しかありません・・・ この鉄橋の写真を続けます。 14 河口に近いので、カモメがたくさん飛んでいました。 14 シジミ採りの風景を、上流側の橋から逆光で撮りました。 13 右岸堤防 三河旭方 から見た矢作川橋梁の全景です。 古レール利用の架線柱がそのまま残っており、良いアクセントになっていました。 この鉄橋を走った電気機関車牽引の貨物列車の写真は をご覧ください。 14 左岸堤防 中畑方 から見た矢作川橋梁の全景です。 14 この右側が矢作川橋梁です。 お名残乗車で車内は混雑していました。 14 三河平坂駅の交換風景です。 廃止が迫った頃は、碧南~吉良吉田間で唯一の交換駅で、朝だけ列車交換が行われたようです。 30発行に加筆 平坂の町は、江戸時代には年貢米の積出港として栄えた所で、西尾鉄道が1914 大正3 年に平坂線を開通させました 左図の青線。 開通時は軌間762mmの軽便鉄道で、蒸気機関車が活躍しました。 その後、愛電に合併され1928 昭和3 年に改軌・電化、1960 昭和35 年に廃止されました。 三河鉄道 左図の赤線 は1926 大正15 年に大浜港 碧南 ~神谷 松木島 が開通しましたが、後から出来たため、駅は町外れにあり、両鉄道は競合関係にあったためか、乗換には不便な駅配置でした。 両線が名鉄に合併後も交差部に駅は出来ませんでした。 11 800形の単行が走っていた頃の三河線 海 です。 吉良吉田から乗った碧南行き電車が、三河一色で交換待ちをしましたので、電車から降りて撮りました。 813号は1981 昭和56 年にモ3500形3503号を両運転台化改造して出来た車です。 なお、3500形は戦時中の1942 昭和17 年に出来た電車です。 11 三河一色駅での交換風景です。 813号と814号が交換しました。 三河一色駅は、この直後の3月19日に運転業務を廃止し、ここで列車交換はなくなりました。 左方の倉庫前には、一色産の鰻を貨車で積み出していた頃は引き込み線がありました。 11 814号は3505号を両運転台化改造して出来た車です。 両運転台の800形は、この当時809~814の6両がいました。 そのラストナンバーです。 19 矢作古川の橋梁を渡るキハ30形です。 矢作古川は、Wikipediaで調べたら名前の通り、昔の矢作川でした。 徳川家康の命により、治水対策で矢作川の大規模な付け替えを行いました。 現在の西尾線米津橋梁の少し上流付近で矢作川と矢作古川が分流しています。 実に可愛らしい"エィヴォンサイド"製の軽便蒸気機関車ですね! 東海道線岡崎駅横の岡崎新駅と西尾駅を結ぶ「西三軌道」は1911 明治44 年に開業しましたが、翌年「西尾鉄道」と社名変更したので、「西尾鉄道」の名称が一般的です。 軌間762mmの蒸気軽便鉄道でした。 この西尾鉄道は、西尾に最初に出来た鉄道で、その後、西尾~港前、西尾~吉田港を順次開通させましたが、碧海電気鉄道や三河鉄道の攻勢を受け、1926 大正15 年に愛知電気鉄道へ合併、1928 昭和3 年に改軌・電化されました。 13 吉良吉田駅の三河線ホームです。 向こう側へ延びている線路は蒲郡線で、蒲郡線も三河鉄道が建設した路線です。 三河線 海 21 吉良吉田 2004 H16. 14 これが、三河線LEカー最後の写真です。 三河一色大提灯号の看板付きです。 津島軽便堂 へ へ 2015 H27. 16up 参考図書: 「名古屋鉄道社史」 名古屋鉄道 1961 昭和36 年5月発行 「名鉄の廃線を歩く」 徳田耕一編著 JTBキャンブックス 2001 平成13 年8月発行 「三河を走って85年」 郷土出版社 1999 H11 年2月発行.

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【運転見合わせ】名鉄三河線(刈谷市~碧南) 三河高浜駅~高浜港駅で人身事故が発生・・・現地の状況がtwitterで拡散される

名鉄 三河 線 事故

名鉄 三河線 海 の LEカー へ へ 名鉄三河線・碧南~吉良吉田16. 4kmは2004 平成16 年4月1日に廃止となりました。 三河線は、三河鉄道により開業した路線で、1914 大正3 年2月5日に刈谷新~大浜港 現・碧南 で開業、その後路線を南北に延伸していきました。 碧南~吉良吉田の歴史は下記の通りです。 1926 T15. 1 三河鉄道・大浜港 現・碧南 ~神谷 後の松木島 開通 1928 S3. 25 神谷~三河吉田 現・吉良吉田 位置は少し異なる 開通 1941 S16. 1 三河鉄道は名鉄と合併 1990 H2. 1 三河線・碧南~吉良吉田をLE化・ワンマン化 2004 H16. 30、「名古屋」 S41. 30発行より。 19 1914 T3. 5大浜港駅開業、1954 S29. 貨物列車のスジを青線でなぞりました。 このダイヤで三河線海の貨物列車は、刈谷~三河一色1往復 上図青線 、刈谷~新川町1往復、刈谷~碧南2往復が設定されていました。 また当時の三河線海は知立~重原を除きタブレット閉塞式で、タブレット交換駅 閉塞の境界 は、重原~新川町の全駅と碧南・三河平坂・三河一色・吉良吉田駅で、貨物取扱い駅は刈谷~碧南の各駅 刈谷市・新須磨を除く と三河平坂・三河一色でした。 ダイヤを見ると太線が急行で、知立~碧南に運行され、途中停車駅は刈谷市・三河高浜・高浜港・北新川・新川町でした。 その他の通過駅では走行中に運転士が運転台の窓から顔と手を出してタブレットの授受を行っていました。 運転台の後ろで見ながらスゴイ!と思ったのですが写真を撮っていないのを悔やんでいます。 19 貨物扱いが盛んだった頃の碧南駅構内を南 玉津浦方 から見ました。 この当時、西三河の特産品である金物・瓦製品・味醂・漬物・乾麺など1日90tの貨物扱い量があったと言うことです。 19 碧南駅構内を北 新須磨方 から見ました。 中央にデキ400形も停車中で、貨物輸送が盛んだった様子がわかります。 三河線・海の刈谷~碧南間のほとんどの駅で貨物扱いをしていて、最初に三河線に乗ったときは驚きました。 しかし駅構内の全景を撮ったのは碧南駅だけです。 もっと各駅で貨物扱いしていた駅の風景を撮っておけばよかったと悔やんでいます。 11 1981 昭和56 年11月から、碧南~吉良吉田間は、両運転台の800形単行で運転されるようになりました。 1番線には知立~碧南折り返しのHL車3730系、2番線には碧南~吉良吉田折り返しの800形単行が停車中です。 12 1990 平成2 年7月から、碧南~吉良吉田間は、キハ20形LEカーの運転が始まり、同時にワンマン化されました。 12 Nさん撮影 三河旭駅は、矢作川橋梁の最寄り駅でしたから、鉄橋で写真を撮る場合この駅で下車しました。 撮影が終わって、この碧南行きキハ20形に乗ります。 13 Nさん撮影 碧南~吉良吉田の廃止が迫った頃です。 「ご愛顧 ありがとうございました」の看板がついていました。 12 三河線 海 随一の撮影ポイント・矢作川橋梁を渡るキハ20形です。 全長423. 9mで、名鉄の橋梁の中では本線の木曽川橋梁 木曽川堤~笠松 484. 5mに次ぐ2番目の長さでした。 橋脚のスパンはこちらの方が短いので橋桁の数では勝っています。 橋桁に1~21の番号が振ってあり、21スパンの見応えのある橋梁でした。 14 矢作川橋梁です。 私が三河線・海の廃止区間で撮った写真は、駅撮りを除けば、この鉄橋しかありません・・・ この鉄橋の写真を続けます。 14 河口に近いので、カモメがたくさん飛んでいました。 14 シジミ採りの風景を、上流側の橋から逆光で撮りました。 13 右岸堤防 三河旭方 から見た矢作川橋梁の全景です。 古レール利用の架線柱がそのまま残っており、良いアクセントになっていました。 この鉄橋を走った電気機関車牽引の貨物列車の写真は をご覧ください。 14 左岸堤防 中畑方 から見た矢作川橋梁の全景です。 14 この右側が矢作川橋梁です。 お名残乗車で車内は混雑していました。 14 三河平坂駅の交換風景です。 廃止が迫った頃は、碧南~吉良吉田間で唯一の交換駅で、朝だけ列車交換が行われたようです。 30発行に加筆 平坂の町は、江戸時代には年貢米の積出港として栄えた所で、西尾鉄道が1914 大正3 年に平坂線を開通させました 左図の青線。 開通時は軌間762mmの軽便鉄道で、蒸気機関車が活躍しました。 その後、愛電に合併され1928 昭和3 年に改軌・電化、1960 昭和35 年に廃止されました。 三河鉄道 左図の赤線 は1926 大正15 年に大浜港 碧南 ~神谷 松木島 が開通しましたが、後から出来たため、駅は町外れにあり、両鉄道は競合関係にあったためか、乗換には不便な駅配置でした。 両線が名鉄に合併後も交差部に駅は出来ませんでした。 11 800形の単行が走っていた頃の三河線 海 です。 吉良吉田から乗った碧南行き電車が、三河一色で交換待ちをしましたので、電車から降りて撮りました。 813号は1981 昭和56 年にモ3500形3503号を両運転台化改造して出来た車です。 なお、3500形は戦時中の1942 昭和17 年に出来た電車です。 11 三河一色駅での交換風景です。 813号と814号が交換しました。 三河一色駅は、この直後の3月19日に運転業務を廃止し、ここで列車交換はなくなりました。 左方の倉庫前には、一色産の鰻を貨車で積み出していた頃は引き込み線がありました。 11 814号は3505号を両運転台化改造して出来た車です。 両運転台の800形は、この当時809~814の6両がいました。 そのラストナンバーです。 19 矢作古川の橋梁を渡るキハ30形です。 矢作古川は、Wikipediaで調べたら名前の通り、昔の矢作川でした。 徳川家康の命により、治水対策で矢作川の大規模な付け替えを行いました。 現在の西尾線米津橋梁の少し上流付近で矢作川と矢作古川が分流しています。 実に可愛らしい"エィヴォンサイド"製の軽便蒸気機関車ですね! 東海道線岡崎駅横の岡崎新駅と西尾駅を結ぶ「西三軌道」は1911 明治44 年に開業しましたが、翌年「西尾鉄道」と社名変更したので、「西尾鉄道」の名称が一般的です。 軌間762mmの蒸気軽便鉄道でした。 この西尾鉄道は、西尾に最初に出来た鉄道で、その後、西尾~港前、西尾~吉田港を順次開通させましたが、碧海電気鉄道や三河鉄道の攻勢を受け、1926 大正15 年に愛知電気鉄道へ合併、1928 昭和3 年に改軌・電化されました。 13 吉良吉田駅の三河線ホームです。 向こう側へ延びている線路は蒲郡線で、蒲郡線も三河鉄道が建設した路線です。 三河線 海 21 吉良吉田 2004 H16. 14 これが、三河線LEカー最後の写真です。 三河一色大提灯号の看板付きです。 津島軽便堂 へ へ 2015 H27. 16up 参考図書: 「名古屋鉄道社史」 名古屋鉄道 1961 昭和36 年5月発行 「名鉄の廃線を歩く」 徳田耕一編著 JTBキャンブックス 2001 平成13 年8月発行 「三河を走って85年」 郷土出版社 1999 H11 年2月発行.

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三河線 人身事故に関する今・現在・リアルタイム情報|ナウティス

名鉄 三河 線 事故

三河線(みかわせん)は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 路線の前身は三河鉄道で、知立駅の配線がスイッチバック形状に変更されるまでは海線、山線ともに一体となって運行されていた。 2004年4月1日に(碧南駅 - 吉良吉田駅間)が廃止された。 これらの区間は閑散区間で、碧南駅 - 吉良吉田駅間は1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。 しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は2000年に末端区間の廃止届を同年秋に提出することを表明した。 これは鉄道敷設当時にカーブの先端に当たる玉津浦駅を、海水浴場の最寄り駅としての利便性を図ったことに起因するともいわれる。 また、三河楠駅 - 寺津駅間にある寺津高架橋は、三河南部から中部国際空港へのアクセス道路となる県道衣浦岡崎線への踏切設置を避けるためにおよそ21億円の費用で建設されたもので、1998年に供用を開始して間もなく名鉄は区間廃止を表明したため、わずかな期間しか利用されない高架橋工事への批判が噴出した。 manacaが使用可能である。 駅舎とホームは構内踏切で連絡している。 終着駅であるにも拘らず駅集中管理システムによる無人駅となっており、知立駅から遠隔管理されている。 保線員やパートの清掃員は昼間時間帯は居る。 駅南側のかつての本線部分を含めて留置線があり、車両の夜間滞泊や入換え、増解結が行われている。 そのため、無人駅であるが、運転要員は常駐している。 また、当駅に到着した電車の開扉をするのも運転要員の役目である。 駅の構造はホーム1面1線の停留場であった。 晩年はホームに上屋はなかった。 かつては当駅付近より貨物線()が伸びていて、玉津浦海水浴場への輸送に使用されていたことがあった。 駅の構造はホーム1面1線の停留場であった。 かつては列車交換が可能な島式ホームだった。 三河旭 - 碧南間は、地形などの問題で線路がS字状に蛇行している。 かつて、三河旭駅で上り列車に乗り遅れた場合、4つ先の新須磨駅(現:碧南中央駅)まで自転車で移動すれば、碧南駅で交換停車することもあって逃した列車に追いつけたという(三河旭・新須磨間の直線距離は約2. 1kmで、信号機などがなかった当時は自転車なら8分で移動できたが、列車は蛇行した3. 9kmの線路を進み、碧南駅で交換待ちを行うため、10 - 11分程度を要した)。 駅構造は島式ホーム1面2線で列車交換可能であったが、晩年は1面1線のみになっていた。 現在でもその跡が残っている。 駅の構造は廃線前までは2両編成に対応した1面1線ホームのみの地上駅であった。 敷地の形状や交換設備の跡から、かつては島式1面2線のホームであったことが伺えたが、廃駅となってしばらくの後に更地化され、現在は駐車場になっている。 2004年4月1日の同線碧南駅 - 吉良吉田駅間廃止に伴い、廃駅となった。 廃駅後、駅舎はしばらくそのままの形で放置されていたが、現在では解体撤去され名鉄協商駐車場になっている。 三河線の廃線区間で、廃止時点において唯一交換設備が存在したのが当駅である。 廃線時には、住宅街に囲まれた位置にある駅という雰囲気が強く、無人駅となっていたがコンクリート造りの駅舎があった。 プラットホームは島式で、構内踏切(遮断機や警報機はない)によって南側から入る構造になっていた。 駅の前には商店があり(現在も営業)、駅舎を向いて左側には駐車場・駐輪場も設けられていた。 なお、分岐器には発条転轍機(スプリング・ポイント)が採用されていたが、廃線直前には常時は上下列車ともに吉良吉田方向に向いて左側(北側)の線路を通るように固定され、朝に列車交換を行う時のみ機能していた。 その他、駅構内にはかつて貨物扱いを行っていた時代の側線が、朽ち果てながらも残されていた。 また、朝1本のみだったが、平坂始発碧南行列車も存在(同駅7:13発)した。 その列車は碧南から回送され、南側線路にて客扱い・折り返しをしていた。 碧南・吉良吉田間は、朝ラッシュ時限定で三河平坂駅にてタブレット交換をしていた。 そのため、レールバス化以後無人駅だったが、夜21時ごろから朝9時頃まで名鉄社員が出張し、タブレット交換要員として待機していた(切符販売などは一切なし)。 廃止直前の一日あたり乗車人員は約100人だった。 駅の構造はホーム1面1線の停留場であった。 昔あったと思われる交換設備の跡や、貨物用ホームが残っていた。 駅南には県道を跨ぐ高架橋があった。 なお、この高架橋については、寺津駅の頁で詳しく述べる。 三河楠駅 - 寺津駅間にある寺津高架橋は、三河南部から中部国際空港へのアクセス道路となる県道衣浦岡崎線への踏切設置を避けるためにおよそ21億円の費用で建設されたもので、1998年に供用を開始して間もなく名鉄は区間廃止を表明したため、わずかな期間しか利用されない高架橋工事への批判が噴出した。 駅構造は廃線前までは4両編成に対応した1面1線ホームのみの地上駅であった。 交換設備の跡や、ホーム待合席の屋根の形状から、かつては島式の1面2線であったことや、ほかにも貨物用ホームがあったことが伺えた。 駅の構造は4両編成対応のホーム1面1線の停留場であった。 昔は木造の駅舎があったが、無人化後に解体された。 構内は広く、昔貨物の積み下ろしをしていたと思われるホーム跡が残っており、昔の繁栄を思わせる。 駅の構造は晩年はホーム1面1線の停留場であったが、1984年まではホーム島式1面2線で列車の行き違いが可能であった。 また最盛期には貨物側線が2本あった。 駅舎はコンクリート製で、廃駅後は数年間代替バスであるふれんどバスの事務所として使われていたが、2008年に解体された。 1984年4月1日付けで名鉄の駅員の配置はなくなったが、2003年7月31日までは名鉄東部観光による管理委託駅で、切符を販売していた。 藤井悪水路橋梁が残る。 駅の構造は晩年はホーム1面1線の停留場であった。 かつては島式1面2線で列車交換が可能であった。 昔は貴賓室付きの大きな駅舎があったが1978年に解体された。 この駅には、名古屋鉄道最後の腕木式信号機があった。 全ての列車が停車する。 西尾線および蒲郡線の始発・終着駅である。 以前は両線間で一体運用されていたが、2008年(平成20年)6月29日ダイヤ改正により、当駅で完全に運転系統が分断された。 また、西尾線特急の当駅への入線はなくなり、代わりに急行・準急が入線するようになった(同時に標準ダイヤでの普通の入線もなくなり、急行・準急全列車の西尾 - 吉良吉田間を各駅停車とした)。 蒲郡線では、終日当駅始発のワンマン運転になり、旧三河線ホーム(2番線)に乗り換え改札口が設置された。 また、3・4番線各ホームへの待合室の設置工事も行われ、各ホームへの車椅子対応スロープも整備された。 3・4番ホームは、蒲郡線と西尾線を接続させるために、線路は半径160mで大きく湾曲している。 4両編成の場合、2両目と3両目で、また3扉車が3番線に停車した場合、中扉の箇所でホームと列車の間が特に広く開いているので、足元には注意が必要になる。 自動券売機、自動改札機、簡易列車案内が設置されている。 自動放送は導入されておらず、構内放送は駅係員が適宜行っている。 なお、2番線には乗り換え改札口が設置されているが、蒲郡線はmanaca・相互利用ICカード利用不可のためいずれかのカードを使用する際は乗り換え改札口で乗車駅または下車駅の申告を行う必要がある。 旧三河線の線路は一部を残し留置線として利用されているほか、旧三河線のホームについては、2004年の廃止後に一時期、進入禁止の処置がされていたが、現在は蒲郡線の電車が終日発車するようになっている。 西尾線と蒲郡線の直通運転がなくなったため、どちらのホームの駅名標も、隣接駅の一方が空白になっている(検査や車両交換などに備えて線路は繋がったままになっており、車止めは1・2番線碧南寄りにしかない)。 2番線の先、車止めまでの間に踏切があるが、これは2004年に廃止された旧三河線の跡である。 2番線に蒲郡線の電車が到着すると警報機が鳴って遮断機が下がるが、通常電車が通過することはない。 第二次世界大戦後の名鉄では初となる本格的な通勤用の電車として登場し、1977年には鉄道友の会よりブルーリボン賞受賞車両に選出された。 4両編成と2両編成という2種類の編成が登場したが、4両編成は1984年からは制御方式を一部変更するとともに接客設備を一部改善した6500系としての増備に移行し、2両編成も1987年から制御方式を一部変更した6800系としての増備に発展、1993年に後継車両として2代目3500系が登場するまで増備が続けられた。 Copyright C 2008-2019 hotetu. net All Rights Reserved 外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ 歩鉄の達人 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

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