吉川晃司 ナベプロ。 【イケオジ】吉川晃司さん(54)にネット騒然。「上背、体幹、銀髪・・」女子の観察眼がすごい!

吉川晃司若い頃の画像 髪は黒々していて、体形は細身。服装や髪型に昭和感!

吉川晃司 ナベプロ

「主演映画三部作」が先になりましたが、今回から 吉川晃司さんのミュージシャンとしての遍歴を、シングル・アルバムのディスコグラフィ、関連する人物、ミュージシャンと共に、時系列でご紹介します。 そして ディスコグラフィすら時系列できちんと整理されていないのは、 当時の所属レコード会社が現存せず、移籍を繰り返したことも要因かもしれません。 その主役は、 松田聖子さん、田原俊彦さん、近藤真彦さん(1980年デビュー)、 中森明菜さん、シブがき隊(1982年デビュー)などの80年代アイドル勢。 彼ら(彼女ら)は大手事務所に所属し、芸能界・アイドルの王道を歩む存在です。 チェッカーズは1984年、2nd. シングル「涙のリクエスト」でブレイクを果たし、オリコンチャートやランキング番組のベスト10内にデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」、3rd. シングル「哀しくてジェラシー」の3曲が同時ランクイン。 その人気は社会現象となります。 そしてこの年の2月、吉川晃司さんは「モニカ」で鮮烈なデビューを果たします。 これまでの男性アイドルは(今も、ですが)あくまでも女子中高生がターゲットでジャニーズ王国の独占市場。 「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」とまで言われた時代、 ナベプロに反旗を翻した井原プロデューサーはホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーといった新興プロダクションと団結し、「紅白歌のベストテン」を成功に導きます。 一方のNETでのナベプロ番組はわずか2クールで終了する失敗に終わります。 この出来事をきっかけに、 ナベプロの芸能界における影響力が失墜します。 でもご紹介したとおり、自筆で自画自賛の手紙を送りつけてスカウトされ、修道高校を中退して上京したものの、なかなかデビューさせてもらえないことに業を煮やし単身社長室に殴り込み、そのことで渡辺晋社長に気に入られた…という、もはやマンガのようなストーリー。 「ウチの金庫には、もう3億円の金しか残っていない。 その名は 木崎賢治さん。 ミュージシャンとしての吉川晃司さんの初期の世界観は、このセンスに溢れる名プロデューサーによって創り出された、と言って過言ではないでしょう。 ギターを持って踊れる大学生が主人公。 女の子と出逢い、恋に落ちるが、夏休みの終わりと共に彼女と別れなければならなくなる」という短編を描いた楽曲「モニカ」を想起します。 木崎氏は吉川晃司さんに 佐野元春、原田真二といった名を挙げ、「日本語をロックに合わせて歌う歌唱方」を示唆。 楽曲を NOBODY、作詞を当時沢田研二さんのシングルなどを手掛けていた 三浦徳子さん、アレンジャーに 大村雅明さんを起用して創り上げます。 1stシングル「モニカ」1984. レトロは職場や仲間の飲み会にGoodです!ご予約お待ちしています。 「シェア」「いいね!」お願いします。 「ギターを弾きながら歌いたい」という本人の希望は、ドン・晋社長に 「オマエはボーカリストなんだから、正々堂々とマイクの前に立って、びしっと歌え」と却下されたそうですが、ピンクのスーツに身をまとい、足を高く上げ、カメラワークのフレームから見切れるように躍動しながら歌い、最後は片手バック転と、持ち前の身体能力をフルに発揮して躍動するスタイルは、連日放送されるTV歌番組においてあくまでもドメスティックに、「振り付け」で唄う他のアイドル歌手の中で あまりにロックで、鮮烈でした。 この世界観は1か月後に発売されたデビューアルバム、4か月後に発売される2nd. シングルでも貫かれます。 1stアルバム「パラシュートが落ちた夏」1984. 1 4位 16万枚 1. ピンナップにシャウト!! a day good night 作曲陣は 原田真二さん、 NOBODY、佐野元春さん、 佐藤健さん。 作詞陣に 安藤秀樹さん、 三浦徳子さん、 小林和子さん、 松尾由紀夫さん。 参加ミュージシャンは、ギターに 白井良明さん、 松原正樹さん、 今剛さん。 キーボードに 西本明さん、 大村雅朗さん。 ドラムが 上原裕さん、ベースに 奈良敏博さん、 浅田孟さんというツワモノ揃いの超豪華な布陣。 全編を通じて 初期の佐野元春さんのような軽快な8ビートに、大村雅明さんアレンジの美しい旋律のメロディが乗ったポップチューンが並び、そこにアヴェニュー、ブルーバード、ドライブインシアターといった アメリカナイズされたセンテンスが散りばめられます。 ちなみに タイトルの「パラシュートが落ちた夏」については諸説あり、真意のほどは明らかになっていません。 そしてもう1つは 「ナベプロと沢田研二との別離を暗喩した」というものです。 また、 スーツに白いスニーカーという当時、アメリカのビジネスマンの間で流行していたファッション、 前髪に金色のメッシュを入れてサイドはもみあげのないテクノカットの髪形も大流行しました。 5月1日栃木会館を皮きりに 初の全国ツアー「FLYING PARACHUTE TOUR」がスタート。 メンバーは 椎野恭一さん Ds 、山崎透さん Key 、笠原敏幸さん B 、稲葉智さん G で、稲葉智さん加入前の1979年から1983年半ば頃には 「山下久美子 with PaPa」としてコンサートや学園祭などで活動していました。 演奏テクニックだけでなくコーラスワークにも優れ、レコーディングには参加しないものの、 TVの歌番組、全国ツアーではデビュー曲「モニカ」以来、COMPLEX結成前のラストソロライブまでの約4年間、「吉川晃司 with PaPa」が一つのユニット。 吉川晃司さんはこの時が初共演となる うじきつよしさん(子供バンド)をゲストギタリストに、 鮎川誠さん率いるロケッツ、小山卓二さんらと共に出演。 会場はほぼRCファンで埋め尽くされるアウェーの中で、孤軍奮闘しました。 忌野清志郎さんはそんな吉川晃司さんを気遣い、ブーイングを飛ばすRCファンに 「キッカワはイイ奴です!」とエールを贈りました。 夜な夜な六本木を飲み歩き、 「お前の音楽は説教くさい」「お前のチャラチャラした音楽は好きじゃない」などと本音で語り合いながらも若くして芸能界、音楽マーケットでブレイクを果たした2人は 「どこか根っこが通じ合っている」仲。 「吉川、気を付けようぜ。 俺らはまだまだ子供だ。 頑張ろうな」などと語り合っていたそうです。 2人はこの年の8月5日、日比谷野外音楽堂で開催予定だった 「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」で共演する予定でしたが尾崎さんが前日の「アトミック カフェ」出演中に5m近いトラスから飛び降りて足を骨折、幻に終わってしまいました。 その後、1986年1月31日にHOUND DOG日本武道館公演に2人で揃って飛び入り参加、これが生涯で唯一の共演となってしまいました。 10 4位 作詞:売野雅勇 作曲:大沢誉志幸 編曲:大村雅朗 3枚目のシングルは、 大沢誉志幸さんの楽曲に 売野雅勇さんが詩を付けた「ラ・ヴィアンローズ」。 この 「シングルジャケットの後ろに並ぶパラソルは渡辺晋社長自らが立てた」という、微笑ましいエピソードが残されています。 ロイヤルブルーのタキシードをラフに着こなして唄う姿は前2曲よりもオトナなイメージで、秋の新人歌謡祭シーズンを席巻します。 「ザ・ベストテン」出演時にラストで プールに伸身バック宙で飛び込むパフォーマンスでお茶の間のドギモを抜きました(本人曰く、スタッフに「吉川さん、プールがあるんですよねぇ」と言われ、それは飛び込めってことだよな、と思った、とのこと)。 その1か月後に発売された2nd. アルバムは、デビュー以来の路線であるリゾートロックの一つの完成形と言える名盤です。 2ndアルバム「LA VIE EN ROSE」1984. 5 1位 16万枚 1. 太陽もひとりぼっち 作詞陣は前作から続く 安藤秀樹さんに 売野雅勇さん、 麻生圭子さんが、作曲陣には 原田真二さん、 NOBODYに、 大沢誉志幸さん、 伊藤銀次さんが新たに加わりました。 参加ミュージシャンはギターに 今剛さんと 北島健二さん。 ベースが 奈良敏博さんでキーボードに 西本明さん、 富樫春生さん、サックスに 矢口博康さん。 YESの「ロンリーハート」で注目されていたオーケストラヒットや、ガラスの割れる音、機械的なシーケンス・・・メロディアスな楽曲にこれらの要素が加わり、新世代のリゾートロックの完成形となりました。 5 12インチシングル「MAIN-DISH」 この実験要素は年末に発売された12インチシングルでも披露されます。 「No No サーキュレーション」、「モニカ」、「サヨナラは八月のララバイ」の3曲をリミックス ロング バージョンで収録。 デュランデュラン、カルチャークラブ、スパンダーバレエ、カジャグーグーなどに代表されるシンセサイザーを多用したエレクトロポップを主体とし、そのルーツには デヴィッド ボウイや ロキシー ミュージック等の グラムロック~ニューウェーブの流れ、ダンディズムがあります。 同時期にブームとなった MTVでのビジュアル戦略もあり、1980年代前半のアメリカでは「第2次ブリティッシュ インヴェイジョン」と呼ばれる一大ブームとなります。 「芸能界」括りでいえば 1984年日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。 >2年目の1985編に続きます!.

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吉川晃司の結婚した妻や子供は?歴代彼女は河合奈保子、アン・ルイス、天海祐希?

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広島で活躍するローカルタレント・西田篤史は、来広ミュージシャンと多くの交遊を持ったことでも知られるが、駆け出しの頃、やはりプロデビュー前、広島時代の吉川に密着取材した。 「はまちバンド」解散ライブ終了後、ナベプロのマネージャーに「お前は甘い!」と殴られる吉川を横で見ていて、「な.. 何てことするんだ.. 」と思ったというが、吉川は「水球部だったんで別に普通 何とも思わない」と話した。 ナベプロが制作していた関係で『新春かくし芸大会』にも出演した。 演目は、1985年は日本刀を使った竹割りや、殺陣。 リハーサルの際、上手く竹を割ることが出来ず、日本刀が曲がってしまい、何本も壊した。 1986年は バイクスタント。 猛スピードの バイクに乗りジャンプ台まで疾走し、 バイクとともにジャンプした後にダンボールの山に突っ込むという、体を張った芸を披露した。 酔っ払って六本木のビルの4階から飛び降りた。 またジャッキー・チェンのように4階までビルとビルの間をつたって登ったこともある。 飲んで自宅マンションの部屋の鍵を無くしたときは、マンションへといをつたってよじ登りベランダから部屋に入った。 この経験は3回あり、うち1回は7階だった。 ベランダの窓が鍵が掛かっていたときは、窓を叩き割って部屋に入った。 近隣に警察に通報され警官に自宅だと説明した。

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【1984年3月】モニカ/吉川晃司 デビューからブレーク 自ら売り込んだ元五輪候補― スポニチ Sponichi Annex 芸能

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この曲は、77年頃、ラジオの深夜放送で聞いた。 題名がユニークだったので、よく覚えている。 歌(声)は綺麗で上手い!と感じた。 この場合のダスティン・ホフマンとは映画「卒業」で 最後に、花嫁を奪う主人公のこと。 大塚博堂は、ナベプロの男性歌手と言っても、 ジュリーや布施明とは違い、当時、流行っていた ニューミュージック系の「ノンストップ」プロジェクトの一員だったとか。 他のメンバーは、太田裕美、79年レコード大賞最優秀新人賞の 桑江知子、山下久美子(後述)など。 と同時に、あの「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」 を歌った歌手の作品だと気づいた。 まぁ、その2曲しか知らないが、彼が、81年5月に37歳で 亡くなったと聞いてショックだった。 その後、やはり人気は 落ち目 になった。 80年は、田原俊彦に始まったジャニーズ進撃元年だ。 女性アイドルも松田聖子、河合奈保子、そして花の82年組、 松本伊代、小泉今日子堀ちえみ、中森明菜、、この中にナベプロはいない。 まぁ私は、81年に就職して、あまり歌謡番組も 見られなくなったのだが、この82年の初め頃、雑誌で 「堀プロからは堀ちえみ、渡辺プロダクションからは渡辺めぐみ という事務所の名前を背負ったアイドルがデビューする」 という記事を読んだ覚えがある。 堀ちえみは正統アイドルの道を歩んだが、 渡辺めぐみは、すぐに路線変更したみたいね。 彼自身、芸能界入りで「ジュリーのいるナベプロ」を選んだとのこと。 ナベプロの寮に入ったが、寮に置いてあった小柳ルミ子大先輩の衣装を 勝手に売り飛ばしたとか。 女子には嫌われ(あの4文字発言後かな?)、 女子用の風呂に入らせてもらえず(イジメだよな!)、 仕方がないので男子用風呂に入った。 そこで入浴中の中山秀征らが大慌てになったとか(「しくじり先生」より本人談)。 お笑いでは、ビジーフォーがナベプロにスカウトされた時、 「クレージー(キャッツ)、ドリフ、次は、君たちだ!」と言われたらしいが、 そこまでは行かなかった。 最後に1968年の「おそ松くん」に 当時、飛ぶ鳥を落とすナベプロを揶揄ったと 思われる作品があるので紹介する。 さらに、フリーの人気歌手・チビ太も所属にして、 町では「怖いものなしのプロダクション」。 チビ太にオファーがあっても、ダヨーンとハタ坊を付ける。 それが嫌なら、チビ太は出さない そんな体質をチビ太が嫌い退所。 そこで、鍋プロは暴力団を使い、チビ太の芸能活動を妨害。 原っぱで行う彼のリサイタルの日、公会堂で無料の上、 お菓子まで配って妨害。 しかし、お菓子を食べ終わった観客がチビ太の元に駆けつける。 鍋プロは倒産。 プロダクション側からすれば、 裏切ったタレントは「恩知らず」なんだよね と芸能プロダクションの暗部を描いている。 これ、字は違うが「鍋プロ」と表記しているのが凄いが、 私はこの漫画を小学6年の時に読んだが、 そうショックは受けなかった(^^: 吉本はまだ揺れているな。 ゆりやん 吉本騒動への直撃に「鋼のハート」先輩芸人も絶賛• 昼間の番組だから見られなかったし。 ただ、時々、見たのは、「イモ欽トリオ」を真似た感じで 当時の私から見てオッサン(それもちょっと今でいう オネエ系)とオバサンの間に若い女の子がいるなぁと いう印象でした。 渡辺めぐみ、その後、キャラに合わせて「 太田プロ」に移籍したとか。 mixiユーザー 2019年07月30日 23:15 懐かしいですね、渡辺めぐみ。 ときめきTouch Meは今も歌えます。 でも、よく考えたら他の曲は分からないです。 それが、よめきんへ転身した理由でしょうね。 私が、その年の初めに読んだ記事通り、 やはりナベプロはある程度、プッシュしていたんでしょう。 ただ、正統派アイドルから、路線変更したようですね。 彼女も、ナベプロの寮で、松本明子と同じ釜の飯を 食べたんですね。 mixiユーザー 2019年07月31日 00:14 めぐり逢い紡いで、懐かしいです。 大塚博堂氏の作品であることは後年知りましたが、やはり布施明の代表曲の一つと思います。 笑っていいとも!でブレイクしたのでしたね…• 後に大塚博堂のオリジナリも聞きましたが、 布施明向きの曲ですね。 女心の失恋を歌った曲として「愛の終わりに」も同じですね これ71年暮れ発売の名曲ですが、そうヒットしなかった。 (オリコン30位)、私も覚えていませんでしたよ。 本文に書いた彼のベスト盤カセットで知ったくらいです。 よめきんトリオ、私より若い人の記憶に 濃く残っているようですね。 私は、その頃、「笑っていいとも」は見られず、 名前だけ知っていて、 ちょっと見たことがある程度でした。 mixiユーザー 2019年07月31日 01:56 ジャニーズ事務所は意識にありましたが、他の事務所は全然わかってなくて、こうやって事務所からひもといていくのも面白いですね!松本明子さんの話はきいたことある〜で、和田アキ子さんもナベプロかと思ったら、ホリプロなのですね。 mixiユーザー 2019年07月31日 08:25 大塚博堂が亡くなったニュース、中3の修学旅行で京都駅での解散後、仲間で乗り合わせたタクシーのラジオで知りました。 曲は今でも全く知りませんが、博堂と言う名前だけで記憶に残ってます。 今思うと、意外と売り出しに広告代理店が絡んでいて、博報堂から、報を取ったのが芸名だったりして。 mixiユーザー 2019年07月31日 08:28 今、調べたら博堂さん、本名でした。 失礼しました。 mixiユーザー 2019年07月31日 09:25 ニューミュージック系のノンストップ・プロジェクト。。 そういうのがあったんですか。 どおりで。 いや、太田裕美が「雨だれ」でデビューしたとき、てっきりそっち系だと思ったのですが。 事務所も最初はその系統で売り出そうとしてたんですね。 もっとも、共通マイミクさんに教えてもらったことの受け売りなので、やや不正確ですが。。 かの吉田拓郎も「ジュリーみたいな路線でスターになってもよかった」的なことを言ったとかで。 ニューミュージックと歌謡曲の線引きは僕らファンサイドはこだわっても、当事者には単なる売り出し方の違いに過ぎないものなのかもしれません。 mixiユーザー 2019年07月31日 10:14 おじ3には何故か!?・・・大塚博堂の歌は当時では名前も聞いた事がない感じでした。 それも、クレージーキャッツやピーナツ、 ドリフにゴールデンハーフキャンディーズ、 明るく若いエンターテインメントの世界です。 本文に紹介した少年向け漫画、「おそ松くん」で パロディにされるくらい有名でしたよ。 大きな事務所なので、強引なことも やったようですね。 そのナベプロの牙城を70年代初めに 崩しかかかったのが 和田アキ子のいた「堀プロ」です。 来月は、「堀プロ」のことを書きましょう。 mixiユーザー 2019年07月31日 12:38 大塚博堂の「めぐり逢い紡いで」印象に残っています。 大人の歌声でとても魅力的でした。 赤道小町ドキッ/山下久美子 今聴いても斬新な歌詞とサウンド〜 3人の若さと才能がはじけてますね。 それが1980年、翌年の春、新入社員教育中、 大塚博堂が37歳で亡くなったと聞いて 驚きましたよ。 まぁ、布施明が、彼の「めぐり逢い紡いで」 をカバーしたのでちょっと関係はあったのかな? とは思いましたが。 太田裕美は、キャンディーズと共に スクールメイツ出身で、キャンディーズに 加わったかも知れないと言われますね。 確かに、売り出した時は、アイドルでは ありませんでした。 どっちかと言うと、その前年(73年)に大ヒットした 「あなた」の小坂明子に近いモノがありましたよ。 80年代の終わり頃、 バラエティ番組で司会補佐を やっているのに気付き、 決定的に知ったのは92,3年の 「電波少年」でした。 その時、元アイドル歌手だと 知ったくらいです。 「君は薔薇より美しい」の前です。 まぁあまり売り上げは行かなかったようですが (オリコン28位)、どこかで聞いていたのかも知れません。 >赤道小町ドキッ ザ・ベストテンでは 象に乗って歌ったのが印象に残っています。 まぁ、歌謡界にバク転を持ち込んだのは フォーリーブスの北公次だと思いますが、 彼は、凄かったですよ。 3回連続バク転の後、伸身(身体を伸ばしたまま)の バック宙返りを見せましたからね。 (1971年の紅白「地球はひとつ」) その頃、男子中学生は、バク転が出来るのが ひとつのステータスで。 私もなんとかできましたよ。 でも、高校の時、柔道場でやったら もろ頭を打って、それ以来やっていませんが(^^:• ジュリーとか、ああいう陰のある人に 憧れていましたよ。 高校時代は、彼と身長、体重がほぼ同じで 髪型も似せていました。 ジャニー喜多川氏も、 彼がお気に入りで、芸名に、 自分の「喜多」から「北」 を与えたとか。 北公次作詞になっている フォーリーブスの曲もいくつかありますね。 2020年• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 2006年• 01月• 02月• 03月• 04月•

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